2026/01/14

さようなら

さようなら   谷川俊太郎

ぼくもういかなきゃなんない
すぐいかなきゃなんない
どこへいくのかわからないけど
さくらなみきのしたをとおって
おおどおりをしんごうでわたって
いつもながめてるやまをめじるしに
ひとりでいかなきゃなんない
どうしてなのかしらないけど
おかあさんごめんなさい
おとうさんにやさしくしてあげて
ぼくすききらいいわずになんでもたべる
ほんもいまよりたくさんよむとおもう
よるになったらほしをみる
ひるはいろんなひととはなしをする
そしてきっといちばんすきなものをみつける
みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる
だからとおくにいてもさびしくないよ
ぼくもういかなきゃなんない

2025/02/21

夢の城

胸の震え 抑えて
はるか夢に 焦がれて
見上げる空に 月傾く
夢の城 おぼろ
風に波に削られ
崩れ去る 砂の城
はかない幻 永久の夢
探す旅人

夢追いかけて さまよい走る
胸焦がす青い炎 燃え
夜空を焦がす
夢追う人よ いつか見た夢
奪い返すのだ 今宵

夢にはぐれて 世界の果てへ
愛の迷宮に落ちてゆく
終わりない旅
夢追う人よ いつか見た夢
奪い返すのだ 今宵
夢を

夢こそ この夢こそ
世界をつくる
いのち

2024/12/26

風が

風が桜の花びらを散らす
春がそれだけ弱まってくる
ひとひらひとひら舞い落ちるたびに
人は見えない時間に吹かれている

光が葡萄の丸い頬をみがく
夏がそれだけ輝きを増す
内に床しい味わいを湛え
人は見えない時間にみがかれている

雨が銀杏の金の葉を落とす
秋がそれだけ透き通ってくる
うすいレースの糸を抜かれて

雪がすべてを真白に包む
冬がそれだけ汚れやすくなる
汚れを包もうと また雪が降る
私は見えない時間に包まれている

(吉野弘 心の四季)


2024/12/04

星から降る金

年老いた王様 この世を嘆き
門を閉じ 塀を高く築いた
王子様に言い聞かせたの
「ここよりほかに良い国はない」と
夜の森で あこがれの精が王子にささやく
「旅立て」と
夜空の星から降る金を探しに 知らない国へ
なりたいものになるため
星からの金を求め
ひとり 旅に出るのよ
「道は険しい」と王様は言った
「この城にともに留まるのだ」
「おまえを守るため 城を閉ざした」
王様は息子を愛していた
あこがれの精はもう一度王子に告げた
「旅立て」と
夜空の星から降る金を探しに 世界の果てへ
望むように生きるなら
星からの金を求め
ひとり 旅に出るのよ
愛とは 解き放つことよ
愛とは 離れてあげること
自分の幸せのためでなく
涙こらえ 伝えよう
夜空の星から降る金を探しに 知らない国へ
なりたいものになるため
星からの金を求め
ひとり 旅に出ていくのよ
険しい道を越えて
旅に出る


2024/07/03

You are music

[Phantom]
Christine Daaé, the gods smiled when they imagined you
Do Re Mi Fa Sol, Fa Re, Fa Mi
Do Re Mi Fa Sol, Fa Re, Mi Do
Now you

[Christine]
Do Re Mi Fa Sol, Fa Re, Fa Mi
Do Re Mi Fa Sol, Fa Re, Mi Do

[Phantom]
Move the Do
Do Re Mi Fa Sol, Fa Re, Fa Mi
Do Re Mi Fa Sol, Fa Re, Mi Do

[Christine]
Do Re Mi Fa Sol, Fa Re, Fa Mi
Do Re Mi Fa Sol

[Both]
Fa Re, Mi Do

[Phantom]
Oh, you are music
Beautiful music
And you are light to me

[Both]
Oh, you are music
Moonbeams of music
And you are light to me

[Phantom]
Do Re Mi Fa Sol, Fa Re, Fa Mi
Take a breath on one
And after three

[Christine]
Do Re Mi Fa Sol, Fa Re, Fa Mi
Breathing first on one
And after three

[Phantom]
Breathing in the air
And ebb and flow
Breathing taking care
Fa Re, Mi Do

[Christine]
Breathing in the air from deep below

[Both]
Ready for the run, from Do to Do
You are music
Beautiful music
And you are light to me
Oh, you are music
Sunburst of music
And you are light to me


2024/06/17

孤独

沈黙が浮かべた真実
まがいもののお前
まがいもののぼくよ
止まらない
終わらない
くだらない世界

なぜ影法師は知らない
眠りを忘れて
いつまで踊る
いつまでも踊る

この広い大海原
拾った土くれの忘れ星
このまがいものたちの下
かなしい
恐ろしい

でも
ただ
ただ
愛おしい


2023/09/20

声なき言葉

声なき言葉を重ね合えれば
響きになり 音が聞こえてくる
夢見ることさえ許されずに
生きてきた日々に別れを告げ
勇気を出し 立ち上がろう
俺たちの声を届けよう
明日の歴史を変えるのだ

国王陛下の命により 何人も門に近寄ってはならぬ
会議を再開しろ!
われわれ第3身分は国民の圧倒的多数を代表している

声なき言葉を伝えるまでは
この舗道に立ち続け 動かない
われらの希望の光を消し去る者は
誰であろうと 逃げずに闘うぞ
俺たちの声を届けよう
明日の歴史を変えるのだ

彼らと同じね 希望の光は見えない
明日をどう生きればいい?
恋の喜びも 葬った

愛している人の壁を乗り越えて
結ばれる日が いつか来ると信じたい
愛する人 恋人 家族 人を幸せに
幸せにできる日が来ると
その日を信じていたい
その日は必ず来る
恋人 家族 愛する人を
幸せにできる日が来ると
いま この俺たちが歴史を変える



2023/02/19

Crystal Fantasy

マジ マジ マジック
この世界は Magic It's Magic.
しなやかで甘美なこのメロディー
月が奏でる 星屑のシンフォニー
コズミックショータイム
鏡に映し出されたその姿
偽りに抱かれた
終わることのないブラックシーズン

それがマジ マジ マジック
終わることないドリームシーズン
そこはクリスタルファンタジー
私こそクリスタルファンタジー

それがマジ マジ マジック
終わることないドリームシーズン
君もクリスタルファンタジー
この世界 クリスタルファンタジー

イェイ イェイ イェイ イェイ
アハハハハーン
No リアル
Yes ファンタジー
偽りを抱きしめて
真実は闇の彼方
閉じ込められた 鏡の中のプリズナー
クリスタルマジック

マジ マジ マジック
この世界は Magic It's Magic
しなやかで甘美なこのメロディー
月が奏でる星屑のシンフォニー
コズミックショータイム

鏡に映し出されたその姿
偽りに抱かれた
終わることのないブラックシーズン

マジ マジ マジック
この世界は Magic It's Magic
それがマジ マジ マジック
終わることないドリームシーズン
そこはクリスタルファンタジー
私こそクリスタルファンタジー

イェイ イェイ イェイ イェイ
アハハハハーン
No リアル
Yes ファンタジー
偽りを抱きしめて
真実は闇の彼方
閉じ込められた 鏡の中のプリズナー
クリスタルマジック

マジ マジ マジック
この世界は Magic It's Magic
それがマジ マジ マジック
終わることないドリームシーズン
君もクリスタルファンタジー
この世界 クリスタルファンタジー

2022/10/30

月夜歌聲

ひそやかな夜の闇
星屑が舞い降りる
ひめやかな歌聲は
心の扉 開き
めぐり逢う時まで
歌い続けてゆこう
ふるえる星たちに
変わらぬ愛を誓おう
どんな暗闇でも
きっと見つけ出す
差し込む月明かり
君の影 映し出す
ああ
どこまでも追いかける
ただ一つの愛
いつしかめぐり逢うだろう
君だけに
いつしかめぐり逢うだろう
君だけに


2022/09/18

memento mori

夜明けにはまだ時間がある
朝焼けはまだ空の彼方
少しずつ音もなく落ちていく
砂時計
明日はまた見つけるだろう
雪の中 咲く
白い花を
手にとれば
すぐとけていく
夢のひとしずくを

留まることなどない時間を
追いかけて
見送ることしかできなかった
今はただ
君に届け
この声は
いつかめぐり逢うための約束を
告げている

光と影とが揺れる道を
駆け抜けて
いつしかようやくたどり着いた
朝の海
君に届け
この声は
寄せては また返す
潮騒の呼び声

瞬く内に季節は過ぎて
君と出会った
あの冬になる
青い星座は君を忘れて
こごえた夜の闇に光る

流れ星なら宙へ
散った花なら土へ
いつか誰もが
帰る日が来る
君の翼はどこを目指す

やわらかな光が
ふりそそぐ
懐かしい
あなたと出会った場所
生まれる前の
記憶たどって
ここへ来た

とめどもなく広がりゆく
夜の水面へ
舟 こぎ出せば
風に踊る
命の灯が
夜空の星をつないで
道しめす
白銀の光はなち
明日へと



2020/03/11

なにもないねこ

なにもないねこ 別役実

 みみがひとつしかないねこがおりました。そのかわりそのねこには、めがみっつありましたから、だれにもわらわれずにすみました。
 めのひとつしかないねこも、おりました。そのかわりそのねこには、しっぽがにほん、ついていました。
 はなのあながひとつで、くちがふたつあるねこも、おりましたし、おへそがなくて、あしがごほんあるねこも、おりました。
 そしてそこに、なにもないねこも、おりました。なにもないねこには、めもみみも、はなも、くちも、あたまも、どうたいも、あしも、しっぽも、なにもないうえに、そのかわりにもなにもなかったので、だれもそこに、そんなねこがいるなんて、しりませんでした。
 そのなにもないねこをうんだおかあさんねこも、うんだとおもったところがなにもないので、うまなかったのだとおもってわすれてしまいました。
「うまなかったのかい?」
「だって、なにもないんですもの」
 そういって、おかあさんねこは、おさかなのほねをさがしにいってしまったのです。
 ですから、なにもないねこはいつも、ひとりぼっちでした。ときどき、やねのうえから、あおいそらと、しろいくもをみあげて、ほっと、ためいきをつきます。
《ああ、せめてひげだけでも、あったらなぁ》
「おい、いま、やねのうえのほうから、ためいきがきこえてこなかったかい」
 しっぽのないかわりに、みみのみっつあるねこがいいました。
「なあに、はるかぜさ。はるかぜが、やねのうえから、おりてきたんだよ」
 あしがさんぼんしかないかわりに、くちがふたつもあるねこが、ふたつのくちをかわりばんこにうごかしながら、いいました。
 しかし、しばらくたつと、どうもそのまちにはなにもないねこがいるらしいといううわさがひろまり、とうとうあるひ、とおいまちのはくぶつかんのかんちょうさんが、おおきなほちゅうあみをもって、やってきました。
「みなさん、こんにちは。このまちには、なにもないねこがいるときいて、やってきました」
「うわさですよ。だれもみたものはいないのです」
「よろしい、わたしがつかまえてあげます」
 そういって、かんちょうさんは、なにもないねこのいそうなところをねらって、おおきなほちゅうあみを、ぶるるん、とふるいました。もちろんそこにはなにもないねこもなにもいなかったので、いきおいあまったかんちょうさんが、どしんとしりもちをついただけでした。
 はくぶつかんのかんちょうさんは、そのひ、まちじゅうでさんじゅうろっかいもほちゅうあみをふるい、かだんのはなをめちゃめちゃにしたり、きょうかいのまどがらすをこわしたり、うまのおしりをひっぱたいたりして、ひのくれるころ、ようやくあきらめてかえってゆきました。
《へたくそ》
 なにもないねこは、かんちょうさんを、まちはずれまでみおくって、そうつぶやきました。じつは、そのなにもないねこは、かんちょうさんにつかまえてもらおうとおもって、なんどもちかづいたのですが、そのたびにかんちょうさんは、やりそこなってしまったのです。
 ふたたび、なにもないねこは、まちのひとびとからわすれられ、ひとりぼっちになってしまいました。
 よるのやねのうえで、みかづきさまをみながらなみだをこぼすと、なみだだけがひとつぶ、きせきのようにこぼれて、やねのうえにちいさなしみをつくります。でも、それもまたすぐ、だれにもみられないうちにかわいて、きえてしまうのです。
《いったい、いつになったら、まちのひとたちは、わたしがいることにきづいてくれるのだろう。ほめてくれたり、かわいがったりしてくれなくてもいい、せめて、いることにきづいてくれればいいのになあ・・・・・・》
 そのうちに、なにもないねこも、としをとりました。としをとったねこは、じぶんでおはかをつくらなくてはなりません。なにもないねこも、まちはずれのおかのうえに、ちいさなおはかをつくりました。
 いよいよさいごのよる、なにもないねこは、いつものようにやねのうえにあがりました。さいごにおつきさまをみて、それからしにたかったのです。
 でも、そのよるはくもがひくくたれこめて、おつきさまはなかなかかおをだしません。ねこはまちました。ながいあいだ、くるしいのをがまんしていっしょうけんめいまちました。よあけちかくなって、とうとうぽつぽつとあめまでふってきて、ようやくねこもあきらめました。
「ねえ、これはなにかしら」
 よくあさ、めをさましたおんなのこが、かだんをゆびさして、おおごえをあげました。かだんのまんなかに、ちょうどねこのかたちに、あめでぬれていないところがあったのです。
「きっと、なにもないねこさ。なにもないねこが、ゆうべここでしんだんだよ」
 まちのひとたちは、そこに、なにもないねこのためのちいさなおはかをつくってあげました。

2017/10/10

行動経済学による『監視なき』監視社会

以下の文章は、2008年12月20日(14:00~15:45)に東京学術センターにおいて開催された行動経済学会第2回大会特別セッション「行動経済学は政策に役立つか?」(司会は大竹文雄さん、パネリストは岩本康志さん、齊藤誠さん、松島斉)において私がしゃべった箇所をすこし修正したものです。報告タイトルは「行動経済学による『監視なき』監視社会」です。報告後2度私がしゃべった箇所も公開します。当日つかったスライドも公開します。中野聡子明治学院大学経済学部教授、新後閑禎京都大学経済研究所教授に感謝します。

報告
「行動経済学による『監視なき』監視社会」

東京大学の松島です。私はゲーム理論とマイクロエコノミクスのセオリーを研究しています。行動経済学については、理論よりもむしろ応用の研究をする際に関心をもつようになり、行動経済学にかかわり続け現在まで来ています。私としては、行動経済学そのものは経済学の今までの研究のスタイルと非常によくフィットしていると思っており、対立するものではないという認識を持っているのですが、政策に利用するという場になったときに、私にとっては意外に思える意見が出てきたので、もっとも最近は少し治まってはいますが、その辺を整理したいと思います。
私の報告のタイトルは、一見過激にも聞こえるのですが、「行動経済学による『監視なき』監視社会」です。これを経済学の「分析の対象とする」ということについて説明したいと思います。監視なき監視社会というものがいいとか悪いとかということではなく、行動経済学者の幾人かがこういうものを目指している、ということをまず説明したいと思います。
三つポイントがあります。まず、行動経済学それ自体は、経済学における「合理性」の議論にすでに学術的に貢献してきていて、これからも貢献していくでしょう。これは非常に重要な貢献を含んでいるし、また同時に難しい課題をも提供しています。
もう一つ、「政策へのアプローチ」ということを考えますと、これは少しニュアンスが違ってきます。これは経済学者が今まで暗黙に分析してこなかった問題を含んでいます。ですから、それ自体に経済学の「分析対象」としての意味があるだろうと考えます。
3番目は、2番目の問題を扱うと、人々が社会的影響(ソーシャルインフルエンス)を受けるケースを考える必要が出てくることです。社会心理学者は社会的影響という言葉を使うと思いますが、経済学では今まであまり使いませんでした。しかし、経済学者は今後それを考えるべきでしょう。そして人々が社会的影響から逃れているケースをも分析するべきでしょう。両方のケースを分析すれば、政策的にいい判断を得るためのきちんとした骨組を作ることができるだろうと考えます。そうすると、今まであいまいにされ暗黙に前提とされた「自律的個人」というものが解明されていくであろうと、私は展望します。

さて、まず「経済学とは何か」ということから説明します。スティグリッツによるポピュラーな教科書の第1章を開くと、「選択の科学」だと書いてあります。そして選択というものは、一義的な評価基準になっているとされます。なぜ「一義的」という表現になるかというと、選択のパターンの解明は実証分析によって繰り返し基礎付けられるという、研究の仕方についての確固たるプロセスを経済学者はちゃんと持っているから、ということです。正しくなければ実証的に検証して練り直す、という明確なステップをわれわれは持っているので、ある程度信用していいと考えるのです。
効用概念というものは、行動経済学が出てきたことで、二つの種類に区別される傾向にあります。一つは、経済主体の選択のパターンを記述するものです。これは選択的効用というもので、リビルドプレファレンスのようなものです。これを基にして、パレート効率性がウェルフェアの判断基準になります。もう一つ、快楽的効用という二つめの概念があります。経済学が基礎にするのは選択的効用の方です。
先ほど実証分析による基礎付けという表現をしたのですが、より詳しくは以下のような選択のパターン解明の手続きを指します。まず実証データがあり、そこから「規則性」を見いだします。この規則性こそが、経済学でいう「合理性」そのものです。私は、これが合理性のほぼ完全な定義の仕方だと理解しています。その合理性をモデル化します。ここには明らかにノーマティブ(規範的)な判断が入ります。このモデルから予測される内容を再び検証し、またデータに戻るというぐるぐる回りをやります。
その際に、この手続きの心臓部分、要するに、実証的に耐え得るかどうかということを常に突き付けられる部分、が「合理性」の特定の仕方、というところになるわけです。ここには明確に、行動経済学的知見が介入してきます。先ほどの齊藤先生のお話の中で出てきたものは、われわれ経済学者にとって、「こういう規則性があるのだ」というようなことは、宝のようなものと考え、モデルを立てていくのです。われわれはそれを何の抵抗もなく受け入れていくことができますし、実際そうなっています。最近は行動経済学的知見がないと論文としての価値がないと言われるまでになってきています。もう完全に私の体の中には行動経済学が入っているということになります。
もう一つ、快楽的効用という、選択的効用以外の効用概念を経済学で使うことがあります。それは政策決定に個人間比較を導入する場合に使います。この際に、快楽そのものは測定できないため、例えば所得や教育水準という代理変数を使います。この代理変数の取り方については、選択的効用と整合的であることが前提とされます。これについては、行動経済学とは意味あいの違う点があるので、後で詳しく説明します。
このような代理変数の使用は、政策決定者の選択パターン、つまり規則性の記述についての規範的条件に関連するものだと経済学者は考えます。これはどういう意味かというと、このような代理変数の使用自体は、経済学者にとってウェルフェア分析としてはあまり「価値がない」としていることです。これは実は、例えば特に日本の社会的選択理論の研究者が混乱しているのではないかと危惧していることなのですが、実態として、これは経済学のウェルフェアの基準になりえません。この辺のことが、行動経済学の議論の場合、さらなる混乱を助長している要因になっていると思われます。後で詳しく説明します。

今までは経済学の話で、これからいよいよ行動経済学の話をします。行動経済学の政策へのアプローチとして、いろいろ議論されているのは、私が命名するところの「パノプティコン・パラダイム」です。これはベンサムから名前を取っています。ベンサムは功利主義の祖の一人ですが、ベンサムが設計した監獄の名前がパノプティコンであり、それは一望監視システムによる監獄建築です。ベンサムは、このアーキテクチャーさえあれば監視人はいなくてもよく、囚人たちに選択の自由をも与えることができると考えました。選択の自由が与えられた監視人なき監獄こそが、ベンサムの考える「理想的な福祉国家像」ということになるのです。これは悪いともいいとも、何とも言えない話です。そして、行動経済学の考える政策というのは、限りなくこのパノプティコンに近いです。
 行動経済学者は、まず快楽には一義的な評価基準があるとします。これは経済学者と非常に異なっています。そして、適切に代理変数を特定でき、正確に計測できる可能性が、将来あるとしています。快楽的効用の代理変数の選別は、快楽という一義的基準に照らしてなされ、選択的効用と整合性がない可能性をも許容します。その結果、カーネマンのようなノーベル賞を取ったような人が、「個人のテイストは国家の方がよく知っている可能性がある。そのときにパターナリスティックな介入は重要だ」ということを94年ごろから言いいだすことになるわけです。最近は快楽の代理変数の計測に脳のデータを使うとのことですから、いずれ神経経済学、神経科学の記述が充実すれば、それによって経済学の概念は全部取って代わられると、一時期のキャメラーのような人はそういうことを言って、いったい何を言い出したことかと、びっくりしたわけです。
重要なのは、行動経済学における合理性の定義というのは、先ほどの選択パターンにおける規則性とは全然違う意味でなされていることです。それは、快楽的効用を最大化しているかどうかという意味になります。これは選択的効用と違いますから、人は選択的効用を最大化するので、「人は間違っている」と結論付けるのです。ですから、国家はそれを正す立場にある、これが福祉国家の生活向上ということに結び付く、ということになってきます。
これに対して、経済学の立場というのは、「快楽には一義的価値基準はない。それについて正しく代理変数を見つけることの根拠はない。計測技術の進展は期待できるだろうが、それがよい価値判断にはつながる保証はなにもない」ということです。さらに問題は、いったん代理変数が決まると、その変数の持つ「内在的な意味」が利用されるので、意味のすり替えが起きてしまうことです。こういうことは、意図的に、政治的に利用されるのだろうと考えられます。
そうすると行動経済学者は、経済学の立場から見ると、ある権力を持っている人が自分の意図を実現させるためのアプローチだと見ることができます。そして、これは現実的な話です。それは、人々が、その権威国家のようなものに期待していることなのかもしれません。しかし、経済学者はまずは一歩退いて、善し悪しを議論する前に、こういう状況を分析対象として見て、明示的に分析するべきだと思います。われわれ経済学者は今までこういうことを分析してこなかった。経済学が行動経済学の政策へのアプローチ自体を分析対象とするというのは、とても重要だと私は考えます。

簡単にそのアプローチがどのような構造かといいますと、プリンシパルとエージェントの関係ということになります。経済学では、プリンシパルとエージェントは契約の関係だと思っていました。つまり、メカニズムデザインの話でしたが、ここでは「ウィズアウト」なのです。ウィズアウト・メカニズムデザインです。プリンシパルがやることは、エージェントである国民に何か説得をします。そうすると、エージェントの間で「同調現象」が起こり、ソーシャルノルム(社会規範)ができあがります。それに従い、自ら服従と遵守という態度を表明するという構造になります。この場合の「説得」というところで、科学的お墨付き、遺伝や脳科学、生理学、あるいは倫理、経済学もそうでしょうが、様々な手段が援用されることになります。特に重要な手段として、行動経済学的手法というものが、ここで使われることになります。
パノプティコンというのはベンサムのアイデアで、私はベンサムを行動経済学者の祖と見ているのです。ベンサムの監獄の作り方というのは、監獄の中で強制を排除していき、選択の自由を提供します。つまり、リバタリアンパターナリズムを作るのです。それができると、監視人は要らなくなり、そのアーキテクチャーだけでみんな規律正しい行動を自ら取るようになるというのです。
ベンサムは人々が教会の支配から逃れるための具体的なアプローチを示したのです。ですから、これは怖い話に聞こえますが、私は大変な業績だとも思っています。ベンサムのアイデアを、監獄から病院、学校、職場と、要するに「公共の場」すべてに利用することにより、高度な福祉社会を実現させるというアイデアになっていきます。これはばかげた話に聞こえますが、私は福祉国家のイメージで、パノプティコン以外のモデルをなかなかイメージできないでいます。いろいろ考えていくと、このような話になってしまうのです。
このことを問題にしたのがミシェル・フーコーという人です。フーコーは『監獄の誕生』という本の中で、ベンサムというのは、とんでもない人だという話になってくるのです。フーコーは、ベンサムが意図したのは私が説明したような高度福祉国家ですが、これをやると「自律的個人」というものが失われる。フーコーは、高度福祉国家と自律的個人が明確な対立概念だと主張したのです。こうして、ここで、「このフーコーの警鐘に、経済学はどのように向き合うか」という問いに、われわれは直面することになります。

経済学者は、このパターナリズムの話を聞くと、自律的個人によるマーケットに委ねたらどうかと、条件反射のような対立案を提示しがちです。ならば、本来なら、われわれは、自律的な人とそうでない人、その両方を経済学者としてアナライズしていなければならない。ところが、実は経済学者はこれらをアナライズしてきた実績を持っていないのです。「経済学者は自律的個人を仮定する」と教科書の最初に書いてあって、それでおしまいです。これではフーコーが頭を抱えていることに対して何も答えられない。しかし、われわれ経済学者は答えるべきだと思います。
答えるやり方について、我々は再び選択パターン解明のプロセスの話に戻ることになります。経済学研究の歴史的な流れが関係します。先ほどのパノプティコン・パラダイムには、服従や同調、説得など、経済学で使ってこなかったいろいろなターミノロジーが入っています。社会心理学では総称してソーシャルインフルエンス(社会的影響)というそうです。ソーシャルインフルエンスをこのパラダイムの中で人々は受けているわけです。この状況を、今まで経済学はあまり扱おうとしてきませんでした。でも徐々に、とにかくデータを見てみると、齊藤先生の話のように、そういう影響を人々が受けているという事実を、経済学者が取り上げるようになってきています。そして、さらには、誰かがそれをコントロールして利用しようという話になってきました。誰かがコントロールしようという話になると、このコントロールの状況をも経済学者が分析対象にしなければいけなくなります。ここでスキップせず、我々はちゃんと分析しなければいけないのです。
もう一つは、このように分析を進めていくと、人々が社会的影響から逃れている、という状況をもだんだんわかってくるのではないかと思います。これが具体的にはどんなことか私にはまだよく分かりませんが、選択肢集合間の選択とか、フレーム間の選択とかいった、現実の状況においてどのように検証すべきかよく分からないような種類の選択パターンを、効用関数として記述する必要が出てくると思います。そうすると、これが実証分析の基礎に本当に乗っていると言えるのかどうか、はっきりしなくなってきます。よって、経済学者は行動の合理性や規則性に対し、「こういうスタンスの考え方で合理性を特定したのです」というような、フィロソフィカルなバックグラウンドをきちんと作っていかなければ、パターナリズムを利用したり抵抗したりすることについて、まともな議論ができないままになってしまいます。フィロソフィカルなバックグラウンドをきちんと作っていく、これを経済学の研究者はまさに目指すべきです。今日、何となくそのような傾向が出てきており、今の論争というのは、学者的には大変インタレスティングだ、というのが私の印象です。以上です。

補足のコメント(1)

例えば、政府が所得の再分配をするとか、税金をかけるとかします。国民はそれに興味があり大変影響を受けるものですから、それは重要な決定です。そういう意味において、政策そのものが必要かどうかという話とは全く関係ないです。大事なことは、政策判断の前に、経済学者が一歩退いて分析者の視点に立つことです。政府自体も経済主体の一つとしてモデルに組み入れる視点が必要です。
政策のことを悪く言っているのではなく、研究者はまず分析しなくてはいけません、ということを言っているのです。こういう政策を取るとこういう結果が出るということも分析するし、それだけでなく、政府の判断のパターンの実態をも分析するのです。例えば、「社会的厚生関数」という昔出してきた考え方というのは、個人同士を所得を通じて比較します。これはあくまで政策担当者の判断の仕方のパターンを説明するものです。経済学者は、それを分析の対象として見ることのできる「独立した」視点をもたなければいけません。その上で、「これはいい話ですね。よくないですね」ということを、政策に助言する立場として言えばいい。その前のステップこそが、経済学ができるもっとも大事な役回りなのです。
現在、この前のステップというところが大きな問題になっています。なぜかというと、パターナリスティックな仕方というのがだんだん重要で、それが政府に要求されるようになってきている、本当にそうなっているかどうか実のところ私には分からないのですが、仮にそうだとした場合、経済学者は今すぐに何か助言できるような材料を持っているのかというと、あまり持っていないのです。それは、例えば、こういう認知的バイアスがある、社会的なインフルエンスがある、などといった状況の分析は、とても難しい問題だからです。そこに規則性があり、それをみんな何となく分かってはいるのですが、それを一般化できないし、このコンテクストだとばっちりあてはまる、ということもなかなか言い切れないでいます。
例えば、先ほどの地震リスクの場合だと、人々はリスクが低いものを過剰に高く評価している、といいます。この話は、行動ファイナンスをやっている方々には、プロスペクト理論などを通じて、なじみのある見方ではないかと思います。ところが、金融システムのシステムリスクなどを考えると、例えば銀行の倒産といったリスクに対しては逆に、過小な評価をしているのではないかと思われるところがあります。そうすると、そのリスクが少しでもあり、ぱっとリスクが広がってしまうような状況に対して、普通に、普通にというのは期待効用の最大化ですが、それで人々が判断してくれれば阻止できたにもかかわらず、危ない金融商品を売買してしまうということがあるのではないかと思われるのです。
ただ、私はここでかなりいい加減なことを言っていますから、もしかしたらそうではないかもしれません。しかし、低いリスクを高く評価するということが人間の常に本来の姿であるとする見方については、少し考えてみれば簡単にその反例が見つかってしまいます。幾つかことなる属性があり、この属性は些細だからもう考慮しない、というようなことは、人は一般にやるかもしれません。たくさんある属性のうちの一つのリスク、倒産リスク、はたいしたものではないから切ってしまいます。そうすると、これが0.1%をゼロにしてしまうということになると、後々とんでもないことになってしまうということがありえます。経済学の中で、こういう話については近年ぼちぼち議論がでています。しかし、ほかの考え方とどういう関係にあるかということがまだ分かっていません。多くの人がこのことで頭をひねり、今日までよくわからずにずっときているという状況ですので、われわれは政策的な材料を十分に提供できる立場になっていません。ですから、これを経済学の研究者がもっとやることが必要です。それがまず最初であり、マーケットが大事だとかそうでないとかいった話はそれから先のことだと私は思っています。

補足のコメント(2)

行動経済学者の中で、齊藤先生のように、かなり具体的な問題から行動経済学に入ってきた人というのは多いと思います。しかし、そうではない人たち、いろいろいるのですが、その一つのタイプが、私はゲーム理論をやっているのですが、ゲーム理論における「ナイーヴな」合理性の仮定の仕方を批判する実験をやってきた人たち、それはまた結構多いという印象があります。
例えば、「最後通牒ゲーム」というゲームがあります。何か分配の提案をして、気に食わないと「ノー」と言い、気に入ると「アクセプト」します。「ノー」と言ったらその話は終わりという交渉の状況です。ナイーヴに合理的な理論上では、「儲かればいい」という人間像でモデルを立てるということですが、どのような提案でも少しの分配があれば「アクセプト」と答えることになります。「ノー」と言うと、その分配は全部流れてしまうということなので、どんな不公平な提案でも「アクセプト」です。ですから、先手は後手に対して非常に強いアドバンテージがあることになる。しかし実験をやると実はそれほどでもないのです。実験室での先手は、後手に「ノー」と言われるかもしれないので、遠慮がちに提案をしています。また、後手の被験者は実際に「ノー」と言うことがあるとのことです。これについては嫌というほど大量の実験報告があります。多くの行動経済学者が実験し、みんなそのように報告してきているはずなのです。にもかかわらず、「サイエンス」などを見ると、このような互恵的な報復の態度というものが「神経経済学によって初めて解明された」という表現になっていて、なんともびっくりするのです。
すると、ついこの間までこの実験をラボでやっていたような人たちまで、同じように口をそろえて「神経経済学によって初めて人間は合理的ではないものを解明した」という言い方になってきたのです。なぜこのようなことを言っているのか。前から知っていたではないか。どうも感じとしては、物理的なデータに基づかないものは証拠として認めないということを主張したいようなのです。これは「サイエンス」や「ネイチャー」で、どういう人たちが経済学的な論文を審査しているかということを考えてみると、経済学者はそのレフェリーには関与していなかったのだと私は想像しています。もっとも今ではだいぶましになっていると思いますが。
脳データに基づく行動との関係が解明されるということは、経済学者ではない人たちにとってとりわけうれしい話のようです。つまり、脳研究のエリアがほかの分野にまで広がるからです。経済の問題を、選択の問題ではなく、神経科学や生理学のプロセスの問題として見る、という話になってくると、「これはおれたちの飯の種になるではないか」という話になってくるのです。飯の種になれば論文がたくさん書けますし、分野が大きくなります。そうすると、ノーベル経済学賞が取れる、という話にもなってくるのです。ノーベル経済学賞を取るのは別にどうでも構いませんが、そのときに経済学の「選択の科学」自体を無思慮に攻撃するという態度は、どうも許し難いです。
ただ、研究者として少し退いて見ると、脳科学の研究というのは大事なエビデンスなのです。今は経済学に全然結び付いていないと思うのですが、こういう証拠というのは、どんな動機であれ、蓄積されるというのは宝なのです。ですから、仮に邪悪な動機で研究している人がいるとしても、少し我慢すると、いずれすごく優秀な、まっとうな精神を持った人が出てきて、本当に経済学が変わってしまうということもあるわけです。
われわれは、「サイエンス」などのデータを突き付けられ、よく分からずに、つい知ったかぶりしてします。もっとも、経済学者に話す分には「おれの方が少し知っているから」という感じになるだけの話ですが。一方、脳研究者の実態はというと、やはり同じような感じであり、経済学のケの字も知らないですまされてしまう。このような状況でずっといくというのはとてもよくない。全部が見渡せるような天才が出てくれば話が違うのですが、それまでは何かとねちねち批判しながら、しかしデータの蓄積だけは大事にするという二足のわらじを履くような態度を続けた方がいいのではないか、などと迷っています。

2016/06/14

ドル円のベーシス

最近、債券・金利市場ではこれまでの常識では考えられないような状況が発生している。特にドルのスワップスプレッドがマイナスとなり、それが持続している状況は注目に値する。ドルのスワップスプレッドとはドルLiborの米国債に対するスプレッドを示したものであるが、これがマイナスとはすなわちドルLiborの方が米国債金利よりも低くなっていることを意味する。
本来であれば、このような事態は起こり得ない。米国債金利の方が銀行間金利であるLiborよりも高いということは、「国の信用力が銀行のそれよりも劣っている」と解釈できてしまうからだ。
仮にこのような状態になったとしても、通常であれば、銀行がLiborベースで資金を借りて米国債に投資すれば必ず儲かるはずだ。このような投資行動が多数の銀行から取られる結果、スワップスプレッドが縮まっていくはずなのだが、その状態が放置されているのだ。
この原因はさまざま考えられるし、はっきりと特定することは難しいが、国債保有に対する規制上のコスト増はその一因と見て良いだろう。金融機関がバランスシートを拡大することに対するコストは規制によって年々増加する一方だ。金融機関が米国債の保有を減らしていることは想像に難くない。業者の国債保有ポジションがネットでマイナスということも報道されている。
規制による流動性枯渇は以前より懸念されていた。スワップスプレッドのマイナスという現象は、それが形になって出てきつつあるということかもしれない。一般的に流動性の枯渇は激しい相場変動を引き起こすとされている。債券市場において今後乱高下が発生するのか、また、今後規制当局はどのような対応を見せるのか、注目だろう。
そんななかで、もう1つ注目されるのはドル円のベーシスの拡大だ。背景には邦銀のドル需要の増加があると思われるが、これも要因はさまざま考えられる。
ベーシスについては、時折日経でも報道を見かける(ベーシスに関する話題が新聞で報道されること自体とても珍しいことなのだが・・・)が「ドルの調達コストが上昇している」程度の雑なコメントしか見られないので、クロスカレンシーベーシスの概念について整理しようと思う。

ドル円のベーシスとはそもそも何か。それを理解するには通貨スワップというものを知る必要がある。
通貨スワップとは異なる通貨のキャッシュフロー(元本と利息)を交換するデリバティブ取引である。金利スワップは金利のみを交換する取引だが、通貨スワップでは金利の他に元本交換が発生する。例として、ドルと円を交換する通貨スワップ取引を行なった場合のキャッシュフローを図示しておいた。



この取引は例えば、ドルの貸出をしたい日本の銀行が、円の資金を元手に、ドル資金を調達する場合に利用される。日本の銀行は円を潤沢に保有している一方、ドルは多く保有していない。その場合、通貨スワップ取引を用いることで、円を貸出して円の金利収入を得つつ、ドルの金利を支払ってドル資金を調達することが可能になる。
通貨スワップ取引で交換を行う金利は変動又は固定のいずれかであるが、そのなかで、変動金利(Libor)同士を交換する取引を特にベーシススワップと呼ぶ。例えばドルの3ヶ月Liborと円の3ヶ月Liborを交換する取引がそれに該当する。
ここでドルの3ヶ月Liborと円の3ヶ月Liborは、同じ変動金利だが必ずしも等しい価値を持つとは限らないため、金利水準の調整がされる。このドルの3ヶ月Liborと円の3ヶ月Liborを交換する場合に調整する金利をベーシスと呼ぶ。市場慣行として、ドルの金利に対して円の金利をどの程度調整すれば良いか、という観点でベーシスは表記される。ドル円のベーシスと言った場合は、下記の式の±αを指す。

ドルの3ヶ月Libor⇔円の3ヶ月Libor±α

リーマンショック以降、このベーシスはマイナスとなっており、しかもそのマイナス幅は拡大している。足許では-80bpから-90bp程度になっている。
ベーシスがマイナスという意味を簡単な数値例で示すと、

5%(ドルの3ヶ月Libor) ⇔ 3%(円の3ヶ月Libor)-1%(ドル円のベーシス)

言い換えると、

5%(ドルの3ヶ月Libor)+1%(ドル円のベーシス) ⇔ 3%(円の3ヶ月Libor)

というな状態、つまり円を貸してドルを調達しようとすると、円金利3%に対してドル金利5%+1%を支払わなければならないという意味になる。新聞報道で見かける「ドルの調達コストが上昇している」とはこのことを言っている。正確には「円資金を元手にドル資金を調達しようとした場合のコスト」とでもなろうか。
要するに為替のフォワード取引と似たようなことをやっているのだが、ベーシススワップは金利分を元本に組み入れない(当初のSpot水準で満期時に元本交換を行う)ため、金利色が強い取引になっている。そのため、短期よりも長期の取引がメインである。
このベーシスを用いた取引、また、ベーシスの拡大要因として考えられることについて、説明を行おうと思う。

これまで述べた通貨スワップ、ベーシススワップであるが、この取引は為替リスクをヘッジするための取引としてよく利用される。代表的なのはサムライ債のヘッジ取引だ。
サムライ債とは海外企業が日本で発行する円建の債券だ。一般的には、資金調達先として日本の投資家にもアクセスしたいという需要から発行される。今年は比較的サムライ債の発行需要が多かったように思う。
サムライ債を発行すると当然円資金を調達する訳だが、このまま放っておくと為替リスクをモロにかぶることになる。海外企業の会計上の換算は当然円ではなく、ユーロやドルで行われるためだ。これを防ぐためにサムライ債の発行と同時に、通貨スワップを締結し、円の調達を実質的に外貨に変えてしまうことで、為替リスクをヘッジすることがある。
これ以外に最近(と言ってももう何年も前からではあるが)では、海外の機関投資家が日本国債を購入するときに、通貨スワップを利用することが多い。
海外投資家の日本国債の保有割合はここのところ上昇しており、今では10%近くの保有主体となっている。日本国債の金利は下がり続けているにも関わらず、外人の保有比率は上昇しているのだ。なぜ年限によってはマイナス金利でもある日本国債をわざわざ外人が購入するのか、考えたことはあるだろうか。
それを解く鍵がまさにこのベーシスの存在にある。
外国人が国債を購入する際、必ず以下のような形で通貨スワップを組み合わせることになる。













外国人がもともとドルでのファンディングを行っているものとする。まず、通貨スワップによってドルを供給して円を調達する取引を行う。その円を元手に日本国債を購入するのだ。
日本国債から得た金利収入を通貨スワップでの円の金利支払に充当し、その代わり、ドル金利を受け取る。この取引を行うことによって通貨スワップのベーシス分をドル金利で獲得でき、かつ、円国債保有に伴う為替リスクも同時にヘッジできることになる。
単純にドルを用いて米国債をそのまま購入するよりも、通貨スワップを介してドル金利を獲得する方が、現状ではリターンが高い。いくら日本国債の金利が低くても、現状のドル円のベーシスの水準(5年で80〜90bp)であれば、外国人にとっては確実に収益が出る構造であるため、彼らが日本国債を買うインセンティブになっているのだ。
ベーシスの拡大はこんな取引を増加させているわけだが、ではベーシスが拡大している原因は一体何なのだろうか。これは一言で言えるほど簡単なものではないが、なかでも大きいのは邦銀のドル需要の強さ及び通貨スワップを介したドルの出し手の減少ではないだろうか。
国債の金利がほとんど取れないなかで、邦銀は海外での運用収益獲得に躍起になっている。特に利上げが開始されたドルでの運用・貸出によって稼ごうという姿勢はかなり明確であるため、邦銀のドル需要は以前にも増して強いものとなっている。ドルの需要が強ければ、ドルでの調達金利上昇、すなわちベーシスの拡大という現象を引き起こす。
加えて、通貨スワップ市場でのドルの出し手については、以前は外国の投資銀行が中心となっていたが、現在はバーゼルⅢ規制が強化された関係で、エクスポージャーの比較的大きい通貨スワップを介したドル供給が減少している可能性がある。
ベーシスが一向に縮小する気配を見せないのは、これら2つの要因が重なっている可能性がある。規制による流動性の枯渇はこんなところにも現れているのかもしれない。

「金融・経済の仕組を解きほぐすブログ」より

2016/04/01

人は苦しみや敗北からこそ多くを学ぶ

<首都モンテビデオから車で30分。畑のわきの小さな平屋で、ムヒカ氏は上院議員の妻と2人で暮らす。愛車は1987年製の昔懐かしいフォルクスワーゲン。自ら家事をし、畑も耕す。秋を感じる南半球の3月。トレパン姿で出てきたムヒカ氏が、庭のベンチに腰を下ろした。>

--大統領公邸には結局、引っ越さなかったそうですね。
「当たり前だよ。私はもともと農民の心を持って生まれた。自然が大好きなんだ。4階建ての豪邸で30人からの使用人に囲まれて暮らすなんて、まっぴらだ」
--アラブの富豪が、あなたの愛車に100万ドル払うと購入を申し出た噂(うわさ)を聞きました。
「本当の話だ。息子が珍しい車を集めていると言っていたな。もちろん断ったさ。あの車は友人たちからもらった大事な贈り物だ。贈り物は売り物じゃないんだよ」
--「世界で一番貧しい」という称号をどう思いますか。
「みんな誤解しているね。私が思う『貧しい人』とは、限りない欲を持ち、いくらあっても満足しない人のことだ。でも私は少しのモノで満足して生きている。質素なだけで、貧しくはない」
「モノを買うとき、人はカネで買っているように思うだろう。でも違うんだ。そのカネを稼ぐために働いた、人生という時間で買っているんだよ。生きていくには働かないといけない。でも働くだけの人生でもいけない。ちゃんと生きることが大切なんだ。たくさん買い物をした引き換えに、人生の残り時間がなくなってしまっては元も子もないだろう。簡素に生きていれば人は自由なんだよ」
--2012年にブラジルの国連会議(リオ+20)でした演説は、日本で絵本になりました。
「このまま大量消費と資源の浪費を続け、自然を攻撃していては地球がもたない、生き方から変えていこう、と言いたかったんだ。簡素な生き方は、日本人にも響くんだと思う。子どものころ、近所に日本からの農業移民がたくさんいてね。みんな勤勉で、わずかな持ち物でも満ち足りて暮らしていた。いまの日本人も同じかどうかは知らないが」

<60~70年代、ムヒカ氏は都市ゲリラ「トゥパマロス」のメンバーとなり、武装闘争に携わった。投獄4回、脱獄2回。銃撃戦で6発撃たれ、重傷を負ったこともある。>

--軍事政権下、長く投獄されていたそうですね。
「平等な社会を夢見て、私はゲリラになった。でも捕まって、14年近く収監されたんだ。うち10年ほどは軍の独房だった。長く本も読ませてもらえなかった。厳しく、つらい歳月だったよ」
「独房で眠る夜、マット1枚があるだけで私は満ち足りた。質素に生きていけるようになったのは、あの経験からだ。孤独で、何もないなかで抵抗し、生き延びた。『人はより良い世界をつくることができる』という希望がなかったら、いまの私はないね」
--刑務所が原点ですか。
「そうだ。人は苦しみや敗北からこそ多くを学ぶ。以前は見えなかったことが見えるようになるから。人生のあらゆる場面で言えることだが、大事なのは失敗に学び再び歩み始めることだ」
--独房で何が見えました?
「生きることの奇跡だ。人は独りでは生きていけない。恋人や家族、友人と過ごす時間こそが、生きるということなんだ。人生で最大の懲罰が、孤独なんだよ」
「もう一つ、ファナチシズム(熱狂)は危ないということだ。左であれ右であれ宗教であれ、狂信は必ず、異質なものへの憎しみを生む。憎しみのうえに、善きものは決して築けない。異なるものにも寛容であって初めて、人は幸せに生きることができるんだ」

<民政復帰とともに85年に釈放されたムヒカ氏は、ゲリラ仲間と政治団体を創設。89年にいまの与党、左派連合「拡大戦線」に加わった。下院、上院議員をへて昨年まで5年間、大統領を務めた。>

--有権者はあなたに何を期待したのでしょう。
「自分たちの代表を大統領に、と思ったのだろう。特に貧しい層やつつましい中間層がそうだ。特権層には好かれなかったが」
「貴族社会や封建社会に抗議し、生まれによる違いをなくした制度が民主主義だった。その原点は、私たち人間は基本的に平等だ、という理念だったはずだ。ところが、いまの世界を見回してごらん。まるで王様のように振る舞う大統領や、お前は王子様かという政治家がたくさんいる。王宮の時代に逆戻りしたかのようだ」
「私たち政治家は、世の中の大半の国民と同じ程度の暮らしを送るべきなんだ。一部特権層のような暮らしをし、自らの利益のために政治を動かし始めたら、人々は政治への信頼を失ってしまう」
--実際、既成政治への不信から米国ではトランプ旋風が起きています。代議制民主主義が機能していないとも言われます。
「いまは文明の移行期なんだ。昔の仕組みはうまく回らず、来たるべきものはまだ熟していない。だから不満が生まれる。ただ、批判ができるのもそこに自由があるからだろう。民主主義は欠陥だらけだが、これまで人が考えたなかではいい仕組みだよ」
「ドイツやスイスでも政治に不満を持つ多くの若者に出会った。市場主義に流される人生は嫌だという、たっぷり教育を受けた世代だった。米国でも、大学にはトランプ氏とは正反対の開放的で寛容な多くの学生がいる。いま希望を感じるのは彼らだね。貧乏人の意地ではなく、知性で世界を変えていこうという若者たちだ」

<かつてウルグアイは「南米のスイス」と呼ばれ、福祉国家を目指して中間層も比較的厚かった。民政移管後は格差が拡大。01年のアルゼンチン経済危機の余波も受けて不満が高まり、ムヒカ氏らの左派政権誕生につながったとされる。ムヒカ氏の退任前の支持率は65%に達した。>

--格差が広がったのは?
「次々と規制を撤廃した新自由主義経済のせいだ。市場経済は放っておくと富をますます集中させる。格差など社会に生まれた問題を解決するには、政治が介入する。公正な社会を目指す。それが政治の役割というものだ。国家には社会の強者から富を受け取り、弱者に再分配する義務がある」
「れんがみたいに、みんな同じがいいと言っているわけではないよ。懸命に働いて努力した人が、ほうびを手にするのは当然だ。ただ、いまはどうかね。働いてもいないような1人のために、大勢が汗水たらしている世の中じゃないか。これは気に入らない。富の集積にも限度がある」
「怖いのは、グローバル化が進み、世界に残酷な競争が広がっていることだ。すべてを市場とビジネスが決めて、政治の知恵が及ばない。まるで頭脳のない怪物のようなものだ。これは、まずい」
--ご自身を政治的にどう定義しますか。
「できる限り平等な社会を求めてきたから左派だろう。ただ、心の底ではアナキスト(無政府主義者)でもある。実は私は、国家をあまり信用していないんだ」
--えっ、大統領だったのに?
「もちろん国家は必要だよ。だけど、危ない。あらゆるところに官僚が手を突っ込んでくるから。彼らは失うものが何もない。リスクも冒さない。なのに、いつも決定権を握っている。だから国民は、国家というパパに何でも指図されていてはいけない。自治の力を身につけていかないと」
--日本で何をしたいですか。
「日本のいまを、よく知りたいんだ。世界がこの先どうなるのか、いま日本で起きていることのなかに未来を知る手がかりがあるように思う。経済も技術も大きな発展をとげた働き者の国だ。結局、皆さんは幸せになれたのですか、と問うてみたいな」

朝日新聞4月1日



2016/02/16

行き詰まりへの道

 安倍首相にとって発見の一つは、有権者は力強い成長を期待しているわけではなく、それを得るのに必要な混乱を伴う変化を恐れているため、公約を実現できない政治家に制裁を加えるようなことはしない、ということだ。米国、ドイツ、フランスでは有権者の怒りに訴えかけ、さらにそれを煽る政治家が混乱を生んでいるが、日本の政治は数十年来で最も安定した時期にある。
 最近の世論調査で安倍内閣の支持率は50%以上に持ち直しており、連立政権は今夏の参議院選挙で勝利を収める見込みだ。安倍首相の支持率が低下したのは、安全保障関連法の成立を強行した際だけだった。

 アベノミクスが失敗に終わっても日本経済が崩壊するわけではなく、安倍政権発足前の状態への回帰という穏やかな挫折にとどまるだろう。日本の政府債務残高 はGDP200%以上と膨大だが、金利低下のおかげでさほど差し迫った問題ではないように思える。政府は目下、ほぼ無利息で借り入れができるばかりか、 借金をしても投資家から収入を得ることすらできるのだ。

20160212、WSJ「アベノミクス、行き詰まりへの道」より


2016/01/11

40502HC

ブラウンのクロムエクセル、コマンドソールのインディブーツ。
EpauletではInnsbruck Indy Bootsと呼ぶようだ。
クロムエクセルは確かに皺が独特で、コードバンのような雰囲気の質感がある。
トゥルーバランスも初めてだが、確かに大きい。
モディファイドラストよりさらに大きい感じがする。
ただ、ボリューム感もあって、とても履きやすい。
ハトメとフックが金色で、なかなか格好いい。
ちなみに、インディブーツでオリジナルのスタイルナンバーは405、ダークブラウンのクロムエクセルは403だが、これはなぜか40502HCになる。
Epauletではブラウン・クロムエクセルとしているからだろうか。
405に比べるとかなりダークブラウンに近い色だけれども。


2016/01/10

2424C

やや赤茶のアルパイングレインのNSTで、コマンドソールのもの。
Unionmadeで同じ型のブーツを売っているが、そのローカットモデルになるのだろうか。
Epauletに随分前からあったが、雪が降っても履けるNSTのものを一つ欲しかったので、思い切って買ってしまった。
アルパイングレインは無骨でやや固い感じだが、カントリーグレインほど網目が目立たない。
ステッチが美しく、バリーラストなので歩きやすい。
カジュアルだが、履く度に「意外といいな」と思える靴だ。
この後に買ったアバディーンラストの4039Cと比べると、バリーラストのNSTはバンプのステッチが外側に張り出していて、トゥのステッチが短いことがよく分かる。
甲がやや低めで、平べったい印象だ。
どちらがいいかは好みだろう。


2016/01/09

4039C

#8のNSTブーツでコマンドソール。アバディーンラストは954に続いて2足目になる。
細めで少しきついかなとも思っていたが、954以上にジャストフィットだった。
トゥはシャープな形だが、ワイズはDでもしっかり幅がある。
トゥルーバランスやバリーラストのNSTに比べて、トゥのステッチが長めで、存在感を増しているように思う。
関税を2万円も取られてしまったのが残念だが、なかなか買える機会もないだろうから、仕方ないと思おう。
これでAlden収集も終わりだろうか。
転勤すれば履ける機会も随分減るだろう。



2015/11/30

幸福の七カ条

第一条 成功や栄誉や勝ち負けを目的に、ことを行ってはいけない。
第二条 しないではいられないことをし続けなさい。
第三条 他人との比較ではない、あくまで自分の楽しさを追及すべし。
第四条 好きの力を信じる。
第五条 才能と収入は別、努力は人を裏切ると心得よ。
第六条 怠け者になりなさい。
第七条 目に見えない世界を信じる。

水木サンの幸福論(日本経済新聞社)より

2015/11/05

This Love

Clear blue water, high tide came and brought you in
And I could go on and on, on and on, and I will
Skies grew darker, currents swept you out again
And you were just gone and gone, gone and gone
In silent screams
In wildest dreams
I never dreamed of this
This love is good, this love is bad
This love is alive back from the dead
These hands had to let it go free
And this love came back to me
Tossing, turning, struggled through the night with someone new
And I could go on and on, on and on
Lantern burning, flickered in my mind for only you
But you're still gone, gone, gone
Been losing grip
Oh, sinking ships
You showed up just in time
This love is good, this love is bad
This love is alive back from the dead
These hands had to let it go free
And this love came back to me
This love left a permanent mark
This love is glowing in the dark
These hands had to let it go free
And this love came back to me
This love, this love, this love, this love...
Your kiss, my cheek, I watched you leave
Your smile, my ghost, I fell to my knees
When you're young you just run
But you come back to what you need
This love is good, this love is bad
This love is alive back from the dead
These hands had to let it go free
And this love came back to me
This love left a permanent mark
This love is glowing in the dark
These hands had to let it go free
And this love came back to me
This love, this love, this love, this love

Taylor Swift "This Love"