
日経ビジネスオンライン9月16日付
「小田島隆のア・ピース・オブ・警句」より
新聞は、簡単に信用してもらえないメディアになっている。
新聞のせいなのか、読者のせいなのか。それとも時代や社会の変化がそうさせているのか。理由は簡単には特定できないが、とにかく、新聞は裏読みをされる。そういうメディアになってしまっている。
ほんの10年前まで、新聞は、文字通り社会の木鐸だった。
日本に住んでいるほぼ全世帯の日本人が、何らかの新聞を定期購読していたし、そうやって宅配されてくる新聞は、ほとんどすべの国民に信頼されていた。
20世紀の新聞が現在の新聞よりも優れていたと言いたいのではない。
あの時代は、新聞をはじめとするマスコミの役割が今よりもずっと大きかったということを私は言おうとしている。
昭和の時代にはインターネットも無かったし、携帯電話もSNSも無かった。ということは、マスメディアを相対化する情報源がそもそも存在すらしていなかったわけで、それゆえ、新聞とテレビのプレゼンスは、現在とは比べ物にならないほど巨大だったのである。
であるから、昭和の庶民は、「テレビでCMを打っている会社は信用して大丈夫だ」と考えていたし、「新聞が書くことは基本的には本当のことだ」というふうに思い込んでもいた。
実際にも、昭和の時代にテレビでCMを打っている企業は、信頼のおける一流企業に限られていた。現在とは大違いだ。
新聞広告についても同様だ。かつて、クオリティーペーパーに広告を載せている企業の商品は、ほぼそのまま信用することができた。現在は、そういうわけにはいかない。ある程度疑ってかからないとひどい目に遭う。
で、その巨大な信頼に対応する形で、マスメディアの側にも、一定の緊張感があった。読者および視聴者は、自分たちの配信する記事をほぼ鵜呑みにしている。そのことを踏まえた上で報道せねばならない、と、だから、昭和の記者は、現在の記者さんたちと比べてより慎重だったかもしれない。まあ、現在の時点で、それら二つを並べて見比べてみるわけにもいかない以上、本当のところはわからないが、とにかく、現在の新聞に比べて、昭和の新聞がより信頼されていたことはたしかだったのである。内実はどうあれ。
新聞に対する信頼は、料金を支払って購読しているところから生じていた可能性もある。
普通に考えれば順序は逆だ。人はある商品を信頼するからこそ、その商品に対して対価を支払う、と、そう考えるのが自然だ。
が、実際には、必ずしもそうではない。
人は、自分が代金を支払っているということを理由にその媒体を信頼していたりする。
新聞の場合はおそらくそうだったはずだ。
新聞の経営基盤を支えていたのも、そうした「信頼」と「定期購読」という巨大な安定収入だった。
それゆえ、新聞社は、世界各地に支局を置き、特派員を養い、部門別に専門の記者を育て、情報の裏取りに許す限りの時間と費用をかけて、記事の信頼性を担保してきた。
それが、インターネットが普及して、無料で読めるウェブ上のニュースメディアが充実すると、若い世代は新聞にカネを払わなくなる。紙の新聞なんて、無くても間に合うじゃないか、と、彼らはモロにそう考えている。
と、毎日タダで新聞を読んでいる彼らは、いつしか記事に対して昭和の人間が抱いていた「天然の敬意」を喪失する。
それどころか、「情報は疑ってかかるのがリテラシーだぞ」ぐらいな一種ひねくれた感覚が、ウェブにぶらさがっている人間たちのデフォルト設定になってしまっている。彼らは、マトモに書かれた記事をマトモに読もうとしない。やたらと裏読みをしたがる。素直に読むよりは、裏を読む方が高度な読み方なのだと、彼らは半ば本気でそう考えている。のみならず、書かれていることより、書かれなかった部分に真実が宿っていると考えていたりする。ゴルゴ13に出てくるモサドの工作員みたいに。
たしかに、記事によっては、行間に真実が隠されている場合もあるのだろうし、ある種の芸能情報や国際関係の報道では、書かれた事実よりも、オミットされた情報により致命的な真実が宿っているものなのかもしれない。
とはいえ、世界中がゴルゴ13の論理で動いているわけではない。
大部分の世界は、真面目な記者が真面目に書いた記事に最も近い形をしている(はずだ)。少なくとも、私はそう考えている。
昭和の時代でもたとえば、ジャニーズ関連の記事には裏読みが必要だった。
「マッチと××の◯◯って、あれ実質的には△△だよな」
と、われわれは、顔を合わせると、芸能記事の裏読みを競ったものだった。
それが、現代の読者は、あらゆる記事を裏から読もうとする。どうかしていると思う。
私のような旧世代の人間から見ると、マスメディアや記者クラブの悪口を並べてさえいればツイッターや2ちゃんねるで人気者になれる現在の状況は、昭和の時代とは逆の意味で病んでいる。
無論、マスメディアに腐敗が無いわけではないし、記者クラブにだって言われているような特有の弊害があるはずだ。とはいえ、長年積み上げてきた彼らのやり方にはそれなりの実効性がある。でなくても、これだけの情報資産を全否定して良いはずがない。
マスメディアの情報が鵜呑みにされすぎて来た20世紀の反動だとは思うのだが、それにしても、この数年、あまりにも陰謀史観が幅をきかせすぎている。フジテレビの「韓流推し」問題にしてもそうだし、今回の「鉢呂発言」に対する分析でも同様だ。メディアの報道に、行き過ぎや偏向を見出すところまでは理解できるとして、それをただちに「陰謀」だと決めつける態度は、やはりどうかしている。
ウェブ上の新聞記事を有料化する動きは、徐々にではあるが、確実に進んでいる。
で、その動きに伴って、新聞各社は、無料配信の記事の中味を少しずつ薄っぺらにしてきている。5年前と比べてみれば明らかだ。新聞社が提供している無料サイトは、もはや新聞のタダ読みを許すページではなくなっている。検索エンジンの会社やポータルサイトにニュースを売る場合を除けば、あとは、有料ウェブ版への導入路にしたいという意図がはっきりしている。
結果、学芸欄の記事や、有名人のインタビューや、よりきめの細かいニュースネタや、過去記事の検索といった魅力的なコンテンツは、有料化版に引き上げられつつある。まあ、彼らだって商売なのだから当然といえば当然ではある。
現在は、過渡期にあるということなのだろう。
紙の新聞がかつて担っていた「社会の木鐸」(あるいはメタ情報)の座は、「空位」になっている。
といって、電子版への移行は、遅々として進んでいない。
で、われわれの前には、ツイッター発のデマと、2ちゃんねるに蝟集する排外的なレイシズムと、メールを装った無数の詐欺広告が横たわっているわけだ。
今後、既存の新聞社なり新たな情報メディアなりが、確固たる木鐸の地位を築く(そんな時代は永遠に来ないのかもしれないが)までの間、混乱は続くだろう。
と、疑ってかかることがリテラシーだとする卑しい人間観がわれわれを毒していくことになるのだろう。
今回は、オチが見つからない。
うんざりするところから始めたので、うんざりして終わりにしたいと思う。
来週は明るい話題が見つかると良いな(笑)。