アメリカ人にとって、ジャーナリズムは「番犬、権力の監視者」であるべきという強い共通認識がある。権力をじっと監視し、ひとたび不正を見つければ、ペンを武器に噛み付く。
なぜ日本のビジネスマンが、日本経済新聞をクオリティペーパーとして信頼するのか私には理解しがたい。同じ経済紙でも、英国のフィナンシャルタイムズやアメリカのウォールストリートジャーナルは報道姿勢がまったく異なる。これらのクオリティペーパーの記者は、企業のプレスリリースにさほど興味を持たない。1日や2日、他社よりも早くプレスリリースをもらえたからといって、たいした価値などないからだ。
取材相手と仲良くなることと、信頼を得ることはまったく違う。記者だって人間だ。相手のインナーサークルに入ってしまえば、精神的にずっと楽になる。その魔力に抗うことが、読者の信頼を獲得し、ひいては社会を良くする記事を生み出すことにつながると私は信じている。
私は取材対象者とオフレコの約束をしたならば、それを守るべきだと思っている。役人や政治家、企業役員と記者がオフレコ懇談会をもつことには、大きな意味がある。取材対象者の腹の中を探るためにも、オフレコ懇談会は重要だ。その場で重大な情報が明らかにされたときには、オフレコ懇談会ではなく別の取材ルートから糸口を探ればいい。老練な官僚や政治家たちは、オフレコでの発言が形を変えて報道されることを前提に話をするものだ。
読者が本当に知りたいのは「記者の肉声」。
マーティン・ファクラー『本当のことを伝えない日本の新聞』より

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