人生を左右する分かれ道を選ぶとき、一番頼りになるのは、いつかは死ぬ身だと知っていることだと私は思います。
ほとんどのことが、周囲の期待、プライド、ばつの悪い思いや失敗の恐怖など、そういうものがすべて、死に直面するとどこかに行ってしまい、本当に大事なことだけが残るからです。自分はいつか死ぬという意識があれば、なにかを失うと心配する落とし穴にはまらずにすむのです。
人とは脆弱なものです。自分の心に従わない理由などありません。
Steve Jobs
2013/07/30
2013/06/21
誰もいない方向へ歩く
自分が持っている時間って、限りがあるじゃないですか。
今回の震災があろうとなかろうと、ぼくの基本のところには、研究者としての自分がいるんですけど、研究者って、自分が持っている時間と、自分が持っているリソースを何に使えばいちばん人と違うことができるか、というふうな考え方をするんですね。
つまり、いかに人と違うことをやって成果が出せるかというのが非常に重要なポイントで。
逆にいうと、人と同じことをやってたら研究者って存在意義がないんです。
1000人が研究しているものについて、1001番目として研究しても、あまり意味がない。
だから、まだ人がやってなくて、そのなかで、自分が持っている力がもっとも活きることは何か、というふうに考えて、そこへ向かっていく。
それが普段研究をやっているときでも、いちばん重要な心構えだと思っているんですね。
つまり、人のいない方向に向かって歩くんですよ。
だから、落っこちることだってあるかもしれない。
無事にたどり着いたら、たいして意味がなかった、ということだってあるかもしれない。
でも、なるべくハズレがないように、誰もいない方向に向かって一歩一歩、歩く。
そういうことを常に心掛けているはずなんですよ、我々、研究者っていうのは。
震災以後、ぼくがやったことも、基本的には同じです。
「これはたぶん、いまぼくがやらなかったら 誰もやらないだろうな」と思うことをやってきた。
そこに、自分の時間や、力や、リソースを費やしてきたんじゃないかと思います。
だから、もちろん、いろんな論議は目に入りますし、誤解や無理解や誹謗中傷にコンチキショーと思うこともあるけれども。
だけど、そこで場外乱闘するのは、自分の時間の使い方としては、まったく愚かなことだと思っていたので。
そこには加わらずに、やってきました。
「早野龍五さんが照らしてくれた地図」より
今回の震災があろうとなかろうと、ぼくの基本のところには、研究者としての自分がいるんですけど、研究者って、自分が持っている時間と、自分が持っているリソースを何に使えばいちばん人と違うことができるか、というふうな考え方をするんですね。
つまり、いかに人と違うことをやって成果が出せるかというのが非常に重要なポイントで。
逆にいうと、人と同じことをやってたら研究者って存在意義がないんです。
1000人が研究しているものについて、1001番目として研究しても、あまり意味がない。
だから、まだ人がやってなくて、そのなかで、自分が持っている力がもっとも活きることは何か、というふうに考えて、そこへ向かっていく。
それが普段研究をやっているときでも、いちばん重要な心構えだと思っているんですね。
つまり、人のいない方向に向かって歩くんですよ。
だから、落っこちることだってあるかもしれない。
無事にたどり着いたら、たいして意味がなかった、ということだってあるかもしれない。
でも、なるべくハズレがないように、誰もいない方向に向かって一歩一歩、歩く。
そういうことを常に心掛けているはずなんですよ、我々、研究者っていうのは。
震災以後、ぼくがやったことも、基本的には同じです。
「これはたぶん、いまぼくがやらなかったら 誰もやらないだろうな」と思うことをやってきた。
そこに、自分の時間や、力や、リソースを費やしてきたんじゃないかと思います。
だから、もちろん、いろんな論議は目に入りますし、誤解や無理解や誹謗中傷にコンチキショーと思うこともあるけれども。
だけど、そこで場外乱闘するのは、自分の時間の使い方としては、まったく愚かなことだと思っていたので。
そこには加わらずに、やってきました。
「早野龍五さんが照らしてくれた地図」より

2013/06/20
「次」は、あなたにはありません
2013/06/10
こんな経済ジャーナリズムはいらない
金曜夜、某経済誌の社内勉強会にて「こんな経済ジャーナリズムはいらない」というタイトルで講演をした。私は言うまでもなくメディアの専門家ではなく、経済メディアの一消費者に過ぎないのだが、いつも考えていることをまとめてお話したので、備忘録代わりに。
ちなみに、私は紙メディアのヘビーユーザー。現在、紙で購読している媒体は、日経、Financial Times、英Economist、米 New Yorker、文藝春秋、Facta、Foreign Affairs(季刊)。全部ちゃんと読めているわけではないが、パラパラ目は通すようにしている。
Financial Times の読み方
著名なコラムニストによる寄稿である Op-Ed 欄を真っ先に開く。Martin Wolf (経済論説主幹)、David Pilling(アジア総局長)、Gillian Tett などの名物記者が顔写真入りで書いている。Larry Summers元米財務長官や著名大学教授なども頻繁に登場。その前のAnalysisページは15段ぶち抜きで、一つのテーマに関する分析記事。最近では時間がない読者に配慮して "Speed Read" という記事要旨がついている。
最後のLex Column は毎日3つの企業やトピックについて切れ味鋭い分析を載せている。あとはマーケット欄への現役投資家による寄稿記事も、例えばピムコの Bill Gross やモハメド・エラリアンなどが書いていると読んじゃいますよね。
いずれにせよ、ここで求めているのは何かが起こったという「ファクツ」ではなく、分析、世の中を眺める「切り口」であることが分かる。世界で起きている出来事を、どのように理解すればよいのか。あとは、長い特集記事であれば「舞台裏で何が起こっていたのか?」という徹底的な調査報道。これは日刊の新聞よりも、New Yorker などの週刊誌の方が向いているかも知れないが。
そして、上記はいずれもが署名記事なので、「誰が書いたのか?」を念頭に置いて読んでいる。ずっと読んでいると、書き手の個性やバイアスも分かってくるので、それらをひっくるめて、「オピニオン」として読むわけだ。
(もちろん、FTは発行部数が圧倒的に少ないプレミアムメディアであり、かつ親会社はピアソンという教育系企業なので、色々とやる余裕があるのかもしれないが)
日経新聞の読み方
少し前から始まった2面の「迫真」「真相深層」は楽しく読んでいる。以前であれば、日経金融新聞の裏面にあった「M&A交渉の舞台裏」といった記事が好きだった。実際に現場では何が起こっていたのか、人間模様やドラマが知りたい。
あとは編集委員や論説委員による長めの署名入りコラム。同じ記者の記事を読み続けることで、文脈も分かった上で読める。
経済教室、大機小機。「私の課長時代」みたいな人物ものも好き。交遊抄。私の履歴書も面白いのでしょうが、きちんと読んだことがない。あまりに年上の方ばかりなので。書籍広告を眺めると世の流行りが少しだけ見えてくる。日曜の書評や、見開きの絵画記事なども。
本誌裏面の文化コーナーは、時折、大ホームラン記事がある。昨年7月の「田中宏和だよ全員集合」は秀逸だった。日経新聞を読みながら文字通り笑い転げたのはこれが初めてだったと思う。あとは少し前だが、「中村屋!」など歌舞伎の屋号を叫ぶ「大向こう」さんになってしまった英国人ロナルド・カヴァイエ氏の記事「アイ・アム・大向こうさん」。今でも忘れない記事というのはなかなかないので、特筆すべきだ。
日本の新聞を読んでいて違和感を感じること
企業面にある無数の短文記事は、企業のプレスリリースそのまま。載せる必要があるのだろうか。企業から広告をもらうためにやむをえないのだろうか。
あとは、役所や企業のリーク記事。「~であることが明らかになった」って、どう考えてもリークじゃないですか。しかも、報告書を発表する前日に出してみたり、M&Aを発表する日の朝刊に書いてみたり。人事スクープもそうですよね。社長人事をつかんで少し前にリークしてみたところで、何かメディア的な価値があるのだろうか。いつも不思議に思う。
また、FTを読んでいると記者の生産性に驚く。ほとんど毎日か数日置きで、長文骨太コラムを書きつづっている。日本の記者は長文記事を連日書かされるようなことはないのではないか。ゆったりと取材をしているイメージがある。
経済誌もデジタルメディアに資本参加せよ
久しぶりに日経ビジネスやダイヤモンド、東洋経済などを手に取ってみると、特集記事はよく取材されていて面白いものが少なくない。ただ、わざわざ駅のキオスクに立ち止まって買うのが面倒なんですよね。ソーシャルメディア上でシェアされている記事をウェブで読むくらい。すると今後のチャレンジは、いかにいい記事を書くかということに加えて、いかにシェアされる記事を書くかということと、自分たちもウェブ上でどのように読者に記事を積極的に届けて行くか、ということになろうか。各媒体とも自社メールマガジンを持っているが、これも毎朝面白い記事・面白くない記事が混じっているので、あまり読む気がせず、いつも削除してしまう。
毎朝、日経とダイヤと東洋経済からのメールを開くのは面倒で、むしろ Gunosyで選んでもらう方が楽だったりする。だとしたら、経済誌もこういったナビゲーションやキュレーションを行うデジタルメディアに資本参加をしたり協業したりして、どのように記事が読者に届くか、肌で感じられるような取り組みをするべきではないか?
まとめ
経済メディアに求められているのは単なるファクツの報道ではなく、その分析であったり、あとは何が起こったのか、舞台裏の事実を掘り下げた調査報道。そして、今後のメディアのあり方としては、いかにいい記事を書くかだけでなく、どのようにしてソーシャルなどを通じてそれを読者に届けて行くか、自社メルマガを超えた流通戦略が必要となってくる。
「岩瀬大輔 生命保険立ち上げ日誌」より

ちなみに、私は紙メディアのヘビーユーザー。現在、紙で購読している媒体は、日経、Financial Times、英Economist、米 New Yorker、文藝春秋、Facta、Foreign Affairs(季刊)。全部ちゃんと読めているわけではないが、パラパラ目は通すようにしている。
Financial Times の読み方
著名なコラムニストによる寄稿である Op-Ed 欄を真っ先に開く。Martin Wolf (経済論説主幹)、David Pilling(アジア総局長)、Gillian Tett などの名物記者が顔写真入りで書いている。Larry Summers元米財務長官や著名大学教授なども頻繁に登場。その前のAnalysisページは15段ぶち抜きで、一つのテーマに関する分析記事。最近では時間がない読者に配慮して "Speed Read" という記事要旨がついている。
最後のLex Column は毎日3つの企業やトピックについて切れ味鋭い分析を載せている。あとはマーケット欄への現役投資家による寄稿記事も、例えばピムコの Bill Gross やモハメド・エラリアンなどが書いていると読んじゃいますよね。
いずれにせよ、ここで求めているのは何かが起こったという「ファクツ」ではなく、分析、世の中を眺める「切り口」であることが分かる。世界で起きている出来事を、どのように理解すればよいのか。あとは、長い特集記事であれば「舞台裏で何が起こっていたのか?」という徹底的な調査報道。これは日刊の新聞よりも、New Yorker などの週刊誌の方が向いているかも知れないが。
そして、上記はいずれもが署名記事なので、「誰が書いたのか?」を念頭に置いて読んでいる。ずっと読んでいると、書き手の個性やバイアスも分かってくるので、それらをひっくるめて、「オピニオン」として読むわけだ。
(もちろん、FTは発行部数が圧倒的に少ないプレミアムメディアであり、かつ親会社はピアソンという教育系企業なので、色々とやる余裕があるのかもしれないが)
日経新聞の読み方
少し前から始まった2面の「迫真」「真相深層」は楽しく読んでいる。以前であれば、日経金融新聞の裏面にあった「M&A交渉の舞台裏」といった記事が好きだった。実際に現場では何が起こっていたのか、人間模様やドラマが知りたい。
あとは編集委員や論説委員による長めの署名入りコラム。同じ記者の記事を読み続けることで、文脈も分かった上で読める。
経済教室、大機小機。「私の課長時代」みたいな人物ものも好き。交遊抄。私の履歴書も面白いのでしょうが、きちんと読んだことがない。あまりに年上の方ばかりなので。書籍広告を眺めると世の流行りが少しだけ見えてくる。日曜の書評や、見開きの絵画記事なども。
本誌裏面の文化コーナーは、時折、大ホームラン記事がある。昨年7月の「田中宏和だよ全員集合」は秀逸だった。日経新聞を読みながら文字通り笑い転げたのはこれが初めてだったと思う。あとは少し前だが、「中村屋!」など歌舞伎の屋号を叫ぶ「大向こう」さんになってしまった英国人ロナルド・カヴァイエ氏の記事「アイ・アム・大向こうさん」。今でも忘れない記事というのはなかなかないので、特筆すべきだ。
日本の新聞を読んでいて違和感を感じること
企業面にある無数の短文記事は、企業のプレスリリースそのまま。載せる必要があるのだろうか。企業から広告をもらうためにやむをえないのだろうか。
あとは、役所や企業のリーク記事。「~であることが明らかになった」って、どう考えてもリークじゃないですか。しかも、報告書を発表する前日に出してみたり、M&Aを発表する日の朝刊に書いてみたり。人事スクープもそうですよね。社長人事をつかんで少し前にリークしてみたところで、何かメディア的な価値があるのだろうか。いつも不思議に思う。
また、FTを読んでいると記者の生産性に驚く。ほとんど毎日か数日置きで、長文骨太コラムを書きつづっている。日本の記者は長文記事を連日書かされるようなことはないのではないか。ゆったりと取材をしているイメージがある。
経済誌もデジタルメディアに資本参加せよ
久しぶりに日経ビジネスやダイヤモンド、東洋経済などを手に取ってみると、特集記事はよく取材されていて面白いものが少なくない。ただ、わざわざ駅のキオスクに立ち止まって買うのが面倒なんですよね。ソーシャルメディア上でシェアされている記事をウェブで読むくらい。すると今後のチャレンジは、いかにいい記事を書くかということに加えて、いかにシェアされる記事を書くかということと、自分たちもウェブ上でどのように読者に記事を積極的に届けて行くか、ということになろうか。各媒体とも自社メールマガジンを持っているが、これも毎朝面白い記事・面白くない記事が混じっているので、あまり読む気がせず、いつも削除してしまう。
毎朝、日経とダイヤと東洋経済からのメールを開くのは面倒で、むしろ Gunosyで選んでもらう方が楽だったりする。だとしたら、経済誌もこういったナビゲーションやキュレーションを行うデジタルメディアに資本参加をしたり協業したりして、どのように記事が読者に届くか、肌で感じられるような取り組みをするべきではないか?
まとめ
経済メディアに求められているのは単なるファクツの報道ではなく、その分析であったり、あとは何が起こったのか、舞台裏の事実を掘り下げた調査報道。そして、今後のメディアのあり方としては、いかにいい記事を書くかだけでなく、どのようにしてソーシャルなどを通じてそれを読者に届けて行くか、自社メルマガを超えた流通戦略が必要となってくる。
「岩瀬大輔 生命保険立ち上げ日誌」より

2013/05/22
人生後半に後悔しないためには
年を取るなかで失望ではなく満足を決定するものは何なのか。
米ハーバード大学の精神科医、ジョージ・バイラント博士はこれまで著名なハーバード・グラント・スタディーから、心理的適応と成人期の発達に関する知恵を抜粋してきた。この研究では1938年以降今日まで、ハーバード大学在籍者とボストン地域の数百人の生活を追った。最高齢の人々は現在、90歳代になっている。この調査に関するバイラント博士の最新著書は「Triumphs of Experience」。
ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)は、カリフォルニア州オレンジ郡の自宅にいるバイラント博士に電話で話を聞いた。以下はその会話からの抜粋。
WSJ:研究対象の中でどういった人々が人生の後半に後悔を感じている傾向があるのか。
バイラント博士:後悔を感じているのは真に成熟しなかった人々だ。仕事から充実感を得たことがなく、パートナーとの親密な関係を維持しなかった人々だ。こうした人々は振り返って、結婚しておくべきだったとか、もっと好きな職に就いておくべきだったと考える傾向がある。
WSJ:満足感の高い人々との違いは。
博士:より満足している人々は過ぎ去ったことを悔やまない生き方を習得している。こうした人々はうまくいったことを満喫する方法も会得している。明確な昇進経路もなく人生を通して仕事を転々とした人がいた。それでも、この男性は1日の終わりに、大いに満足を感じていた。というのも、こうした職はどれも人助けに関連していて、この人は意味があると考えていたからだ。
WSJ:こうしたことからわれわれが学べることは。
博士:手に入らなかった機会について失望感を味わっている人々に、自問の角度を変え、選択したことから何が得られたかに焦点を絞るよう求めた。短期間の結婚以上に持続する関係を持ったことのない男性がいて、この男性は機械工としての自分の職業がそれほど好きではなく、人生に大いに幻滅していた。その後、50歳代のこの男性は年上の女性と幸せな結婚生活を送り、彼女の教会に行くようになり、信徒の書籍の世話をするようになった上、教会の会計係兼出納係として初めて真の天職を見つけた。
WSJ:引退に向けて準備する最善の方法はあるか。
博士:退職後に幸せな生活が送れるかどうかを判断するには、事前に良い休暇を取ってみることだ。年中無休の仕事のスケジュールから3週間以上離れ、小学4年生がやるようなことをやってみる、つまり遊ぶことだ。ウィンストン・チャーチル英元首相をモデルとすることだ。つまり、自由世界の統治やノーベル文学賞受賞さえ過去のこととして手放し、引退して絵を描いた。
Diane Cole(ウォールストリートジャーナル日本版より)
2013/04/10
経験という牢屋
460名の学部入学生、ならびに53名の大学院入学生、11名の編入学生、1名の再入学生の皆さん、入学おめでとうございます。新しく東京造形大学の一員となられた皆さんを、私たちは心から歓迎いたします。また、ご家族ならびに関係者のみなさまにも、心よりお祝い申し上げます。
新入生のみなさん。今、私はこうして壇上からみなさんに語りかけていますが、三十三年前、私は今のみなさんと同じように東京造形大学の入学式に臨んでいました。本日は、学長というよりひとりの卒業生として、私が学生時代に体験したことを少しお話ししてみたいと思います。
私は高校生のときに一台のカメラを手に入れました。現在のようなデジタルビデオではなく、8ミリフィルムを使用する映画カメラです。そのカメラで、自分の身の周りのものを撮影するようになると、自然に自分の表現として映画を作りたいと思うようになりました。映画館で上映されているような大掛かりな映画ではなくて、絵画のように自由に表現するささやかな映画を作りたいと思い、私は東京造形大学に進学しました。入学式に臨んでいた私は、高揚し、希望に溢れていたと思います。
しかし、大学での生活が始まると、大学で学ぶことに対する希望は、他のものに取って替わりました。地方から東京に出てきた私は、時間があるとあちこちの映画館を飛び回り、それまで見ることができなかった映画を見ていましたが、そこで偶然に出会った人たちの映画づくりをスタッフとして手伝うようになりました。まだインディペンデントという言葉もなかった時代、出会った彼らは無名の作家たちで、資金もありませんでしたが、本気で映画を作っていました。彼らは、大学という場所を飛び出し、誰にも守られることなく、路上で、自分たちの映画を真剣に追求していました。私はその熱気にすっかり巻き込まれ、彼らとともに映画づくりに携わることに大きな充実感と刺激を感じました。それは大学では得られない体験で、私は次第に大学に対する期待を失っていきました。大学の授業で制作される映画は、大学という小さな世界の中の出来事でしかなく、厳しい現実社会の批評に曝されることもない、何か生温い遊戯のように思えたのです。
気がつくと私は大学を休学し、数十本の映画の助監督を経験していました。最初は右も左も判らなかったのですが、現場での経験を重ね、やがて、半ばプロフェッショナルとして仕事ができるようになっている自分を発見し、そのことに満足でした。そして、大学をやめようと思いました。もはや大学で学ぶことなどないように思えたのです。
私は大学の外、現実の社会の中で学ぶことを選ぼうとしていました。
そんなとき、私はふと大学に戻り、初めて自分の映画を作ってみました。自信はありました。同級生たちに比べ、私には多くの経験がありましたから。
しかし、その経験に基づいて作られた私の作品は惨憺たる出来でした。大学の友人からもまったく評価されませんでした。一方で、同級生たちの作品は、経験も,技術もなく、破れ目のたくさんある映画でしたが、現場という現実の社会の常識にとらわれることのない、自由な発想に溢れていました。授業に出ると、現場では必要とはされなかった、理論や哲学が、単に知識を増やすためにあるのではなく、自分が自分で考えること、つまり人間の自由を追求する営みであることも、おぼろげに理解できました。驚きでした。大学では、私が現場では出会わなかった何かが蠢いていました。
私は、自分が「経験」という牢屋に閉じ込められていたことを理解しました。「経験という牢屋」とは何でしょう? 私が仕事の現場の経験によって身につけた能力は、仕事の作法のようなものでしかありません。その作法が有効に機能しているシステムにおいては、能力を発揮しますが、誰も経験したことがない事態に出会った時には、それは何の役にも立たないものです。しかし、クリエイションというのは、まだ誰も経験したことのない跳躍を必要とします。それはある種「賭け」のようなものです。失敗するかもしれない実験です。それは「探究」といってもよいでしょう。その探究が、一体何の役に立つのか分からなくても、大学においてはまだだれも知らない価値を探究する自由が与えられています。そのような飛躍は、経験では得られないのです。それは「知」インテリジェンスによって可能となることが、今は分かります。
私は、現場で働くことを止めて、大学に戻りました。
卒業後、私が最初に制作した劇場映画は決められた台本なしにすべて俳優の即興演技によって撮影しました。先輩の監督からは「二度とそんなことはするな」と言われました。何故してはいけないのでしょう? それは「普通はそんなことはしない」からです。当時の私があのまま大学に戻らずに、現場での経験によって生きていたなら、きっとこんな非常識な映画は作らなかったでしょう。しかし「普通はそんなことはしない」ことを疑うとき、私たちは「自由」への探究を始めるのです。それが大学の自由であり、大学においてこの自由が探究されていることによって、社会は大学を必要としているといえるのではないでしょうか。
私立大学には「建学の精神」というものがあります。それぞれの学校が、どのような教育、研究を目指しているのかが語られた言葉です。東京造形大学は建学の精神を「社会をつくり出す創造的な造形活動の探究と実践」という言葉で表現しています。みなさんには「社会をつくり出す」という言葉がどのように響くでしょうか? 何か大げさな、リアリティのない言葉に思えるでしょうか?
本学の創立者、桑澤洋子先生はデザインや美術の今日的な意味について次のように発言しています。
「それは単なる自己表現というより、社会に責任を取る表現であり、デザイナー美術家は、現代の社会や産業が孕む矛盾を解明する文明的な使命を持たなくてはならない」
私自身、映画制作というささやかな造形活動が、「社会に責任を取る表現」であるかどうか、はなはだ心もとありません。私たちひとりひとりはちっぽけな存在です。私ひとりが存在しなくても、社会はつつがなく進行するであろうと確信できます。私たちが経験を通して実感することのできる社会は、ごく限られたものでしかありません。世界にはさまざまな問題があり、遠い国で内戦があり、飢餓があり、苦しみがあることを私たちは知っていますが、私という小さな存在が、いったいそのような広大な社会とどのように関われるだろうか?と思わず立ち止まってしまうかも知れません。しかし、社会は私たちひとりひとりのこの小さな現実と無関係に、どこか別の場所にあるのではありません。
これからみなさんは、作品や課題の制作に取り組みます。自分の中にあるアイデアが浮かぶ、自分が追求している美しいフォルムが浮かぶ、果たしてそれが本当に良いアイデアなのか、本当に美しいのか自信はないかもしれない。その葛藤は創造につきまとう孤独な作業ですが、それがあなたの内的なアイデアに留まっている以上、誰にも意味を持ちません。しかし一旦それを表現し、形にしてしまうと、あなたの追求したアイデアは具体的な人間関係の中に存在することでさまざまな視線に曝され、その意味を試されることになる。そしてそれは単なる物や形に留まらず、人々や社会の関係性の中で動的な作用を生み出してゆくのです。たとえそれが、ささやかな人間関係の中であっても、確実にそこに社会は形成されます。この広大な世界を、全て見渡せる人は誰ひとりとしていません。私たちはみなこの地上で、限られた関係の中で生きており、全てを見渡すことなどできないところで生きています。私たちの小さな関係が編み目のように広がって、関係しあいながら世界が作られている。デザインやアートはその具体的な関係の中に、運動を作り出し、働きかけてゆく人間の行為です。私たちは、経験することのできないその広大な世界に思いを巡らし、想像することしかできませんが、その想像力こそが世界なのではないでしょうか。
「造形」という言葉を私たちは単に「ものを作ること」と捉えてはいません。たとえば、みなさんがデザイナーとなり、エアコンをデザインしてそれが10万台売れれば、それらが毎日消費する膨大な電力を必要とする社会を、必然的に生み出してしまうことになる。アートも作品それ自体が普遍的な価値を持つのではなく、それが人々の精神に作用する働きによって存在するのだと私は思います。
一昨年に起きた東日本大震災と原発事故によって、あるいはそれ以前から、私たちの社会のこれまでのシステムや作法がもはや機能しないことが露呈しました。私たちはこれまでの社会において当然とされてきた作法を根本から見直さなくてはならない時を迎えていると言えます。現実社会は、短期的な成果を上げることに追いかけられ、激しく変化する経済活動の嵐の中で、目の前のことしか見えません。これまでの経験が通用しなくなっている今こそ、大学における自由な探究が重要な意味を持っている時はないと思います。
この里山の自然に囲まれた、小さなキャンパスから、私たちは世界へと思いを巡らし、想像を広げましょう。それが,たとえドン・キホーテのようであっても、私は私たちの小さな創造行為が、必ず世界とつながっていると確信したいと思います。
入学おめでとうございます。共によりよい社会をつくり出す探究を始めましょう。
平成25年4月4日
諏訪敦彦東京造形大学学長 入学式式辞より
新入生のみなさん。今、私はこうして壇上からみなさんに語りかけていますが、三十三年前、私は今のみなさんと同じように東京造形大学の入学式に臨んでいました。本日は、学長というよりひとりの卒業生として、私が学生時代に体験したことを少しお話ししてみたいと思います。
私は高校生のときに一台のカメラを手に入れました。現在のようなデジタルビデオではなく、8ミリフィルムを使用する映画カメラです。そのカメラで、自分の身の周りのものを撮影するようになると、自然に自分の表現として映画を作りたいと思うようになりました。映画館で上映されているような大掛かりな映画ではなくて、絵画のように自由に表現するささやかな映画を作りたいと思い、私は東京造形大学に進学しました。入学式に臨んでいた私は、高揚し、希望に溢れていたと思います。
しかし、大学での生活が始まると、大学で学ぶことに対する希望は、他のものに取って替わりました。地方から東京に出てきた私は、時間があるとあちこちの映画館を飛び回り、それまで見ることができなかった映画を見ていましたが、そこで偶然に出会った人たちの映画づくりをスタッフとして手伝うようになりました。まだインディペンデントという言葉もなかった時代、出会った彼らは無名の作家たちで、資金もありませんでしたが、本気で映画を作っていました。彼らは、大学という場所を飛び出し、誰にも守られることなく、路上で、自分たちの映画を真剣に追求していました。私はその熱気にすっかり巻き込まれ、彼らとともに映画づくりに携わることに大きな充実感と刺激を感じました。それは大学では得られない体験で、私は次第に大学に対する期待を失っていきました。大学の授業で制作される映画は、大学という小さな世界の中の出来事でしかなく、厳しい現実社会の批評に曝されることもない、何か生温い遊戯のように思えたのです。
気がつくと私は大学を休学し、数十本の映画の助監督を経験していました。最初は右も左も判らなかったのですが、現場での経験を重ね、やがて、半ばプロフェッショナルとして仕事ができるようになっている自分を発見し、そのことに満足でした。そして、大学をやめようと思いました。もはや大学で学ぶことなどないように思えたのです。
私は大学の外、現実の社会の中で学ぶことを選ぼうとしていました。
そんなとき、私はふと大学に戻り、初めて自分の映画を作ってみました。自信はありました。同級生たちに比べ、私には多くの経験がありましたから。
しかし、その経験に基づいて作られた私の作品は惨憺たる出来でした。大学の友人からもまったく評価されませんでした。一方で、同級生たちの作品は、経験も,技術もなく、破れ目のたくさんある映画でしたが、現場という現実の社会の常識にとらわれることのない、自由な発想に溢れていました。授業に出ると、現場では必要とはされなかった、理論や哲学が、単に知識を増やすためにあるのではなく、自分が自分で考えること、つまり人間の自由を追求する営みであることも、おぼろげに理解できました。驚きでした。大学では、私が現場では出会わなかった何かが蠢いていました。
私は、自分が「経験」という牢屋に閉じ込められていたことを理解しました。「経験という牢屋」とは何でしょう? 私が仕事の現場の経験によって身につけた能力は、仕事の作法のようなものでしかありません。その作法が有効に機能しているシステムにおいては、能力を発揮しますが、誰も経験したことがない事態に出会った時には、それは何の役にも立たないものです。しかし、クリエイションというのは、まだ誰も経験したことのない跳躍を必要とします。それはある種「賭け」のようなものです。失敗するかもしれない実験です。それは「探究」といってもよいでしょう。その探究が、一体何の役に立つのか分からなくても、大学においてはまだだれも知らない価値を探究する自由が与えられています。そのような飛躍は、経験では得られないのです。それは「知」インテリジェンスによって可能となることが、今は分かります。
私は、現場で働くことを止めて、大学に戻りました。
卒業後、私が最初に制作した劇場映画は決められた台本なしにすべて俳優の即興演技によって撮影しました。先輩の監督からは「二度とそんなことはするな」と言われました。何故してはいけないのでしょう? それは「普通はそんなことはしない」からです。当時の私があのまま大学に戻らずに、現場での経験によって生きていたなら、きっとこんな非常識な映画は作らなかったでしょう。しかし「普通はそんなことはしない」ことを疑うとき、私たちは「自由」への探究を始めるのです。それが大学の自由であり、大学においてこの自由が探究されていることによって、社会は大学を必要としているといえるのではないでしょうか。
私立大学には「建学の精神」というものがあります。それぞれの学校が、どのような教育、研究を目指しているのかが語られた言葉です。東京造形大学は建学の精神を「社会をつくり出す創造的な造形活動の探究と実践」という言葉で表現しています。みなさんには「社会をつくり出す」という言葉がどのように響くでしょうか? 何か大げさな、リアリティのない言葉に思えるでしょうか?
本学の創立者、桑澤洋子先生はデザインや美術の今日的な意味について次のように発言しています。
「それは単なる自己表現というより、社会に責任を取る表現であり、デザイナー美術家は、現代の社会や産業が孕む矛盾を解明する文明的な使命を持たなくてはならない」
私自身、映画制作というささやかな造形活動が、「社会に責任を取る表現」であるかどうか、はなはだ心もとありません。私たちひとりひとりはちっぽけな存在です。私ひとりが存在しなくても、社会はつつがなく進行するであろうと確信できます。私たちが経験を通して実感することのできる社会は、ごく限られたものでしかありません。世界にはさまざまな問題があり、遠い国で内戦があり、飢餓があり、苦しみがあることを私たちは知っていますが、私という小さな存在が、いったいそのような広大な社会とどのように関われるだろうか?と思わず立ち止まってしまうかも知れません。しかし、社会は私たちひとりひとりのこの小さな現実と無関係に、どこか別の場所にあるのではありません。
これからみなさんは、作品や課題の制作に取り組みます。自分の中にあるアイデアが浮かぶ、自分が追求している美しいフォルムが浮かぶ、果たしてそれが本当に良いアイデアなのか、本当に美しいのか自信はないかもしれない。その葛藤は創造につきまとう孤独な作業ですが、それがあなたの内的なアイデアに留まっている以上、誰にも意味を持ちません。しかし一旦それを表現し、形にしてしまうと、あなたの追求したアイデアは具体的な人間関係の中に存在することでさまざまな視線に曝され、その意味を試されることになる。そしてそれは単なる物や形に留まらず、人々や社会の関係性の中で動的な作用を生み出してゆくのです。たとえそれが、ささやかな人間関係の中であっても、確実にそこに社会は形成されます。この広大な世界を、全て見渡せる人は誰ひとりとしていません。私たちはみなこの地上で、限られた関係の中で生きており、全てを見渡すことなどできないところで生きています。私たちの小さな関係が編み目のように広がって、関係しあいながら世界が作られている。デザインやアートはその具体的な関係の中に、運動を作り出し、働きかけてゆく人間の行為です。私たちは、経験することのできないその広大な世界に思いを巡らし、想像することしかできませんが、その想像力こそが世界なのではないでしょうか。
「造形」という言葉を私たちは単に「ものを作ること」と捉えてはいません。たとえば、みなさんがデザイナーとなり、エアコンをデザインしてそれが10万台売れれば、それらが毎日消費する膨大な電力を必要とする社会を、必然的に生み出してしまうことになる。アートも作品それ自体が普遍的な価値を持つのではなく、それが人々の精神に作用する働きによって存在するのだと私は思います。
一昨年に起きた東日本大震災と原発事故によって、あるいはそれ以前から、私たちの社会のこれまでのシステムや作法がもはや機能しないことが露呈しました。私たちはこれまでの社会において当然とされてきた作法を根本から見直さなくてはならない時を迎えていると言えます。現実社会は、短期的な成果を上げることに追いかけられ、激しく変化する経済活動の嵐の中で、目の前のことしか見えません。これまでの経験が通用しなくなっている今こそ、大学における自由な探究が重要な意味を持っている時はないと思います。
この里山の自然に囲まれた、小さなキャンパスから、私たちは世界へと思いを巡らし、想像を広げましょう。それが,たとえドン・キホーテのようであっても、私は私たちの小さな創造行為が、必ず世界とつながっていると確信したいと思います。
入学おめでとうございます。共によりよい社会をつくり出す探究を始めましょう。
平成25年4月4日
諏訪敦彦東京造形大学学長 入学式式辞より

2013/04/07
知の逆転
- ジャレッド・ダイアモンドは、西欧の発展について、そこに住む民族の能力が他より優れていたから起こっていたのではなく、単にたまたま地の利がよかったことと、農業を可能にする動物・植物が、その地域にまとまって生息していただけのことであり、文明は、わずかの決断の誤りによって、もろくも崩壊すると見抜いてみせた。
- トム・レイトンは、数学者でありながら、自らの理論を実践すべく、インターネットという大海に漕ぎ出し、数学と数式を弓矢に、情報産業という無法地帯で繰り広げられる大戦闘に挑み、インターネットのインフラを一手に引き受けている。
- 人生は出会いが全てかもしれない。人や動物と出会い、色彩や音楽や一文との出会い。全くこの世で生きるのは難儀だが、たとえわずかでも強く心に残る出会いがあれば、それでけっこうやっていけるような気もする。
- 生きていくこと自体がその人独自のアートなのだろう。もって生まれた遺伝子と、環境すなわち出会いがそのアートをつむいでいく。
- 「人生に意味などというものはない。われわれはただ存在するというだけのこと」と言い切るダイヤモンド。
- オリバー・サックスは、教育における最も大事なことは先生と生徒のポジティブな関係であり、教えている内容への先生の情熱だという。また、「音楽は言語より先に脳に入り、言語よりも長く脳に残る」と言われるほど、音楽の力にはめざましいものがあるようで、音楽に合わせてダンスできるのは人間だけなんだと。本当にジャズのように、あっちへ行きこっちへ行き、それでいて全体としてあたたかく心地よい。
- インターネットのサーチをする際、コンピュータがやっているのは、ユーザーが入力した単語の出てくるサイトや文章を拾ってくるということだけで、単語どうしの関係性は全く理解していないとマービン・ミンスキーは指摘している。
- ジェームズ・ワトソンは、革新的なアイデアはおしなべて個人から出てくるので、個人が大切にされる組織や社会でないと発展は望めないという。気配りばかりでがんじがらめにならず、個人の違いを認めあおうじゃないかと。
- インターネットを介して得られる情報は、実際に人に会って得られる情報にはとてもかなわない。こうして面と向かって話すほうがはるかにインパクトがある。ネットを通じた情報の流れよりも、移民と観光による実際の人の流れのほうが、社会へのインパクトが大きい。
- アルゼンチンの作家ボルヘスは「本は民族の記憶である」と言っている。
吉成真由美『知の逆転』より

2013/03/01
備忘録~アベノミクス
一日遅れた月例経済報告は、2か月連続の上方修正となりました。基調判断の文言はこんな風に変わっています。
12月:景気は、世界景気の減速等を背景として、このところ弱い動きとなっている。
1月:景気は、弱い動きとなっているが、一部に下げ止まりの兆しもみられる。
2月:景気は、一部に弱さが残るものの、下げ止まっている。
各論では「個人消費」「生産」「企業業績」「業況判断」が上方修正されました。お見事に景気は上向きです。やはり昨年10月がボトムでありますね。資料編を見ていると、生産の動向あたりは驚かないのですが、消費マインドの持ち直しはまさに衝撃的なほどです。なんでこんなに上向きなのか。現金給与は全然増えていないのに、消費は伸びているという点が面白い。
おそらくは株価の上昇により、資産効果がでていることがひとつ。特に団塊世代の方々の多くは、いわゆる「2007年問題」当時に退職金を受領し、リーマンショック前に投資信託などを買ったケースが多いと聞きます。その場合、元本割れして塩漬けになったりしていると思われますが、昨今の株価上昇はある種の「癒し」効果があるのではないか。「俺たちに現金給与なんて関係ない。でも気分がいいから、久々にちょっと景気よく行こうか」、ということなのでしょう。
もうひとつ、不動産が動意づいているという話をよく聞きます。これはもうモデルルームが一杯だとか、売値より少し下で指値したら入札になっちゃったとか、それも東京都内や軽井沢あたりの高級物件がそうなっている模様。おそらくはキャッシュポジションを極限まで高めていた富裕層が、「これで本当に物価上昇が始まったら面白くない」とばかりに、今まで見向きもしなかった不動産投資に関心を向けているのでありましょう。「3/11」以降は、ニューヨークの物件を物色する動きもあると聞きますので、いやはやあるところにはあるものですな。
他方、いろんな方面から寄せられる質問のナンバーワンは「アベノミクスで景気はいいみたいだけど、これで本当に日本の賃金は上がるのかね」です。直感的に言って、答えはノーでしょう。儲かっている企業はとりあえず賞与を増やすかもしれませんが、定昇やらベースアップやらは躊躇するはずです。そもそもこれだけ非正規社員の比率が増えてしまったのは、医療やら年金やらで正社員を抱えるコストが上がってしまったからでしょう。つまり高齢化社会のコストを安易に企業に負わせたことのツケが、全体的な賃金の伸び悩みという形になっている。
なおかつ失業率は4%台と、先進国では珍しいくらいに低いわけで、ちゃんとワークシェアリングも行われている。これで賃金の上昇をと言われても、あんまりリアリティは感じませんなあ。この矛盾、いつどこで表面化するのでしょうか。
『溜池通信』より
12月:景気は、世界景気の減速等を背景として、このところ弱い動きとなっている。
1月:景気は、弱い動きとなっているが、一部に下げ止まりの兆しもみられる。
2月:景気は、一部に弱さが残るものの、下げ止まっている。
各論では「個人消費」「生産」「企業業績」「業況判断」が上方修正されました。お見事に景気は上向きです。やはり昨年10月がボトムでありますね。資料編を見ていると、生産の動向あたりは驚かないのですが、消費マインドの持ち直しはまさに衝撃的なほどです。なんでこんなに上向きなのか。現金給与は全然増えていないのに、消費は伸びているという点が面白い。
おそらくは株価の上昇により、資産効果がでていることがひとつ。特に団塊世代の方々の多くは、いわゆる「2007年問題」当時に退職金を受領し、リーマンショック前に投資信託などを買ったケースが多いと聞きます。その場合、元本割れして塩漬けになったりしていると思われますが、昨今の株価上昇はある種の「癒し」効果があるのではないか。「俺たちに現金給与なんて関係ない。でも気分がいいから、久々にちょっと景気よく行こうか」、ということなのでしょう。
もうひとつ、不動産が動意づいているという話をよく聞きます。これはもうモデルルームが一杯だとか、売値より少し下で指値したら入札になっちゃったとか、それも東京都内や軽井沢あたりの高級物件がそうなっている模様。おそらくはキャッシュポジションを極限まで高めていた富裕層が、「これで本当に物価上昇が始まったら面白くない」とばかりに、今まで見向きもしなかった不動産投資に関心を向けているのでありましょう。「3/11」以降は、ニューヨークの物件を物色する動きもあると聞きますので、いやはやあるところにはあるものですな。
他方、いろんな方面から寄せられる質問のナンバーワンは「アベノミクスで景気はいいみたいだけど、これで本当に日本の賃金は上がるのかね」です。直感的に言って、答えはノーでしょう。儲かっている企業はとりあえず賞与を増やすかもしれませんが、定昇やらベースアップやらは躊躇するはずです。そもそもこれだけ非正規社員の比率が増えてしまったのは、医療やら年金やらで正社員を抱えるコストが上がってしまったからでしょう。つまり高齢化社会のコストを安易に企業に負わせたことのツケが、全体的な賃金の伸び悩みという形になっている。
なおかつ失業率は4%台と、先進国では珍しいくらいに低いわけで、ちゃんとワークシェアリングも行われている。これで賃金の上昇をと言われても、あんまりリアリティは感じませんなあ。この矛盾、いつどこで表面化するのでしょうか。
『溜池通信』より
2013/02/20
デフレーション
いま人気になっている本を読んだ。
先進国の中で日本だけがデフレに陥った根本的な原因は、1998年から続く名目賃金の低下。
欧米はずっと上がっているのに日本だけが下がり続けている。
欧米の企業は業績が悪くなるとレイオフして賃金水準を維持するのに対し、日本は労使協調で「賃金より雇用」を選び、ユニットレイバーコストが中国に近づいているためだ。
その悪影響を若年層と非正規労働者が受け、世代間格差が広がっている。
また日本企業は画期的な製品を生み出すプロダクト・イノベーションを起こせず、低コストで生産するプロセス・イノベーションばかりを進めてきた。
安倍政権やブレーンの浜田氏が主張する大胆な金融緩和でインフレ期待を起こしデフレから脱却するのは不可能であり、生産人口減少論もデフレの要因ではない、としている。
名目賃金を上げるためには、日本も米国流の労働慣行にするしかないのか。
自分のような中高年が既得権益層となっているということなのだろう。
将来の社会保障に全く期待が持てないことも大きいのではないだろうか。
老い先が厳しいとなれば、少し給料が増えても誰もおカネを使おうとしない。
オバゼキ先生も言っているように、アベノミクスの末路は資産バブルなのだろう。
歴史は20年でもう繰り返してしまうということなのか。
徳川家の末裔の人が書いた「2016年に日本経済崩壊」という話が、なにやら少しずつ冗談ではなくなってきたようだ。
先進国の中で日本だけがデフレに陥った根本的な原因は、1998年から続く名目賃金の低下。
欧米はずっと上がっているのに日本だけが下がり続けている。
欧米の企業は業績が悪くなるとレイオフして賃金水準を維持するのに対し、日本は労使協調で「賃金より雇用」を選び、ユニットレイバーコストが中国に近づいているためだ。
その悪影響を若年層と非正規労働者が受け、世代間格差が広がっている。
また日本企業は画期的な製品を生み出すプロダクト・イノベーションを起こせず、低コストで生産するプロセス・イノベーションばかりを進めてきた。
安倍政権やブレーンの浜田氏が主張する大胆な金融緩和でインフレ期待を起こしデフレから脱却するのは不可能であり、生産人口減少論もデフレの要因ではない、としている。
名目賃金を上げるためには、日本も米国流の労働慣行にするしかないのか。
自分のような中高年が既得権益層となっているということなのだろう。
将来の社会保障に全く期待が持てないことも大きいのではないだろうか。
老い先が厳しいとなれば、少し給料が増えても誰もおカネを使おうとしない。
オバゼキ先生も言っているように、アベノミクスの末路は資産バブルなのだろう。
歴史は20年でもう繰り返してしまうということなのか。
徳川家の末裔の人が書いた「2016年に日本経済崩壊」という話が、なにやら少しずつ冗談ではなくなってきたようだ。
2013/02/18
欧州経済
日本記者クラブでの浜矩子同志社大教授の講演から。
欧州経済の3つのポイント。
1)ECBからECBへ。
欧州中央銀行から欧州カタストロフィ銀行化するという意味。
ギリシャやスペインの国債引き受けは通貨の番人たる中央銀行の責務放棄だと指摘。
2)PEからPGへ。
ドイツの派遣を阻止する汎ヨーロッパ主義(PE)を目指して発足したEUが、ユーロの導入で日に日にパックス・ゲルマニカ(PG)の様相を強めているとのこと。
3)SCからMC、それがいやならDLへ
ユーロという単一通貨(シングルカレンシー、SC)は持ちこたえられず、昔の多通貨(マルチカレンシー、MC)体制への回帰を迫られている。それがいやならメジャーリーグとマイナーリーグに分ける複数リーグ(デュアルリーグ、DL)制を採用せざるを得ない、とのこと。
グッチーさんも言うように、やはりユーロに未来はないのか。
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