2011/12/22

備忘録


紙については、問題を掘り下げて、ソリューションまで提示するような記事を書いていかなければいけないと考えています。
政治などに文句を言うだけの記事はたぶん終わっていくと思うので、こういうやり方があるんじゃないかとか、小さくてもいいのでそういうものを示していく。
うちの雑誌のポリシーやあり方に共鳴してくれるファンをウェブの世界でうまくつくっていくようなことができればいいなと考えています。ニッチでありながら、真剣に手間暇をかけて、濃厚なファンがいる世界をつくりたいと思っています。
みんな勘違いしているのは、日本で新聞が1000万部とか800万部とかいうのが異常な世界であるということです。
これから日本では超がつくマスメディアの時代は終わりを告げるでしょう。ニッチだけれども奥の深い良質なコンテンツを提供するメディアの時代になっていくと思います。
いずれにしてもネットメディアの時代は幕を開けたばかりです。様々な方法をチャレンジしていきたいですね。イズメディアはそのインフラとして、メディア間のパイプ役になるだけでなく、例えばネット化された学会誌などとのパイプ役も果たせるのかな、と思っています。
(JBPressより)

2011/12/21

備忘録
































  • 米国ITバブル全盛期の1999年に東証マザーズ発足。
  • ライブドア(オンザエッジ)は2000年3月にマザーズ上場。ほぼ同時期にサイバーエージェント、楽天も上場。米国ではすでにバブル終息へ。
  • 3社は運良くぎりぎりのタイミングで資金調達できた。楽天は300億円を調達。
  • 日本でもITバブル崩壊で株価下落。3社は現金を抱えてじっと春を待てばよかった。
  • サイバー社はネット広告、楽天は仮想商店街と分かりやすいコアビジネスがあったがライブドアにはなかった。
  • 3社とも後で金融ビジネスに進出、サイバー社はFX、楽天は証券・銀行・信販などで利益のかなりの部分を稼ぐようになった。
  • しかしライブドアは金融で稼げなかった。金融子会社はこの後の株式交換の対象や窓口となった。
  • その原因はライブドアに確固たるコアビジネスがなく買収先にシナジー効果を提示できなかったこと、上場時の調達額を含めて絶対的な資金量の差があったことが大きい。
  • ITバブル崩壊、2001年の同時テロで世界経済が混乱、日本も金融緩和され活況を呈する株式市場でライブドアは生きてきた。
  • コアビジネスのないライブドアは株式100分割などの手法を駆使して株式市場の錬金術に手を染めていく。
  • 株式分割ではライブドアの大株主が手持ちの株を貸株などを使って売却し利益を上げていたが、監督当局は不問とした。
  • ライブドアは4回の分割で株式数は3万倍になった。
  • 現在、監督当局は過剰な指導や規制をしており、株式市場低迷の主要因になっている。
  • 犯罪とされた錬金術の一つは証券取引法違反の「偽計・風説の流布」。
  • 2004年6月にライブドアが子会社ライブドアファイナンス実質支配の投資事業組合を通じてマネーライフ社を4,200万円で買収。すぐに3,000万円増資。この時点で価値は7,200万円となる。
  • 2004年10月にライブドアの上場子会社ライブドアマーケティングがマネーライフ社を株式交換で完全子会社化。マーケ社は7,200万円のマネー社の価値を4億円相当として、組合に株式を交付。組合は当該株式を売却し多額の利益を得た。マネー社の価値4億円は第三者の判断としていたが実際はライブドアが決定した。
  • この時マーケ社は実質赤字だったが架空売り上げ計上で黒字と発表していた(=風説の流布)。
  • これらの行為がマーケ社の株式売買及び株価の維持・上昇を図る目的で行われた偽計とされた。
  • しかしマーケ社の役員は誰も逮捕されていない。ライブドアが組合の利益を自社の利益に取り込んだことも粉飾決算には問われていない。
  • もう一つの犯罪は有価証券報告書の虚偽記載。2004年9月期の連結決算に約15億円の架空売り上げと約37億円のライブドア株式の売却益の計53億円の利益を不正に計上し、実際は約3億円の赤字だったライブドアの連結決算を50億円の黒字とした虚偽の有価証券報告書を提出した。
  • この株式売却益はクラサワコミュニケーションとウェブキャッシング・ドットコムの2社の買収で傘下の投資事業組合が交付されたライブドア株式を売却して得た利益を計上したもの。第1の犯罪では偽計に問われなかった部分になる。
  • こうした矛盾は堀江社長主犯の構造を維持するため、他の関係者から検察側に有利な証言を得るため不問にした部分があるためとみられる。
  • ライブドア事件とは53億円の粉飾決算に過ぎない。
  • ニッポン放送株のインサイダー取引事件で村上ファンド社長が逮捕されたが、ライブドア関係者は一人も逮捕されていない。

2011/12/19

備忘録


東電は独占企業であって、イノベーションの必要性はほとんどない。こうした状況下で人の評価がされるとすれば、その手法は「減点法」にならざるを得ないだろう。「減点法」の世界では、リスク・マネジメントは「想定外のことが起きたときに如何に被害を最小限にとどめるか」という構想力ではなく「リスクに近寄らない能力」ということになってしまいがちだ。その雰囲気が、人から創造力や想像力を奪う。

『Tech-On 技術経営戦略考』より






2011/12/15

備忘録

























































  • マサチューセッツ大学のウルフ教授は、IT化によって生産性は上がっているのに、急激な社会の変化の中でなぜ自分の給料は上がらないのかをほとんどの労働者は分からず、自分自身を責め、自己尊厳の念を失っているという。そのフラストレーションを友達や家族に向ける人たちは、人間関係を不快なものにさせていく。その困難の矛先を移民や他のグループに向け、社会不安の要因ともなっている。
  • これほど極端な富の偏在は2000年以降にみられるものである。2002年から2007年にかけての米国における所得集中の異常な加速は、規制緩和によって不動産や金融業界の利益の急増によって押し進められた。2008年の世界同時金融危機は、主として規制緩和された金融界が狂乱を演じた結果とされている。不動産や金融業界のバブルが2008年の金融危機を引き起こし、そのため多くの米国人が未だにその影響に苦しんでいるのである。
  • スティグリッツは、ブッシュ政権の政策は2008年の金融危機の解決策として、富裕層向け減税を行うことにより米国の財政を一層弱体化させ、ウォール街の特殊利益を優先する「企業温情主義」の政策をとるなど、正しい政策を阻んでいると述べた。米国政府がまずなすべき事は、ローン返済に行き詰まった人が担保の住宅を失うのを防いだり、失業者を支援したりすることだと主張したが、取り上げられることはなかった。
  • 日本が米国と同じような金融危機に陥らなかった理由は二つ考えられる。一つは日本の制度に特有の制度の膠着性、つまり簡単に変わりにくい性質を持っていたという点、第二には金融工学が米国ほどには発達していなかったという点だ。日本はいわば周回遅れだったために、先頭の走者が倒れても自分にあまり影響がなかったという皮肉な幸運のめぐりあわせであって、あまり威張れる性質のものではない。また、日本の終身雇用制を中心とした長期雇用の慣行や、成果主義を取り入れたにしても、未だ基本的には年功序列制の慣行のおかげで、米国ほどには格差の問題が極端にはならなかった。
  • 戦後、米国の影響で徹底的な自由競争を推進させてきたが、それでも協調に基づいた諸慣行は続けられ、競争と協調の絶妙なバランスが保たれ、今日に至ったからである。年功序列制や終身雇用制、生産性の三原則に代表される労使協調、そして政府の産業政策などは、協調を促進し、競争を抑圧する制度だった。
  • ところが1989年から1990年にかけて、バブルがはじけて、日本人は自信を失い、あらゆる日本の慣行が米国からの諸慣行に取って変えられた。リストラが行われ、成果主義が導入され、非正規社員雇用が合法化された。4割もの非正規社員、所得の減少、結婚できない若者、人口の減少、企業の衰退、従業員の会社に対する忠誠心や勤労意欲の低下、など負の連鎖が、確実に始まった。これらが特別の事ではなく、日常となってしまった。かくして、失われた10年は失われた20年になろうとしている。
  • 日本にはあまりにも多くの規制があり、企業家精神を発揮する環境を阻害している。しかし、規制緩和イコール競争状態の推進と考えられている現状に異議を唱えている。より少ない資源を最も効率よく活用するためには、協調によってグループを形成し、より大きな競争に対峙するための競争力をつけていかなくてはならない。
  • 2009年度のGDPの中で、農林水産業の占める割合は1.4%であり、農業に限ると1.1%となる。議論のために、経済面だけに焦点を絞り極論すると、農業を放棄し、輸出産業、運輸・通信業、卸売・小売、建設業、サービス業など、ほかの日本の競争力のある分野において、関税面で不利な扱いを受けずに、海外に打って出るとするならば、1%どころか数%の雇用を生み、国内総生産も増加し、農業で失うものを補って余りあることになるだろう。日本の経済は大きな成長を遂げる可能性がある。
  • 全農家数が1985年から2009年までの間に6割も減少している。しかも2009年に現存する農家のうち、専業農家はその4分の1にも満たない。全農家の4分の3である兼業農家は、日本がTPPに参加することによって、むしろ雇用の機会は増え、所得も増える可能性がある。兼業農家は多くの保護を必要としないと思われる。
  • 1985年と2009年を比べると、農家人口も農業就業人口も半分以下になっており、さらにショッキングなことは、男性では働き盛りの15才から59才の割合は1985年の120万人から30万人と4分の1になっていることである。しかし、60才以上の農業就労者は減少度合いがずっと緩やかである。つまり工場や商業施設で会社の従業員として雇用されている人々は、そちらで働き、家庭の主たる所得獲得者は農業に従事していない。農業全体としては、すでに競争力を失っているのである。
  • 販売農家の半数弱が稲作農家であり、95%が年収300万円以下である。つまり、ほとんどの農家は農業を専業として経済的に継続していくことがそもそも困難である。これはTPPに参加する以前の問題であり、これらの農家は兼業農家としてのみ生存が可能と考えられる。
  • 稲作農家の95%が規模が小さく、収入も少なく、そもそも専業農家として存続することはできないグループである。つまり、稲作の専業農家であるためには、最低でも20ヘクタールは必要というような条件を法的につけるべきである。このような条件をつけても、完全に国際競争で生き残るのは困難な状況であろう。
  • 水稲では65才以下の専従者のいない農家が76%にもなっている。TPPがあろうとなかろうと、これらの耕作地は早期に放棄されることになろう。地域的にみると、東海、近畿、中国・四国、九州・沖縄では、約3分の2の水田は65才未満の農業従事者がいない。以前にも示したように、生産費が手取り価格を超えている農家の割合は98%に及び、米価が生産費を上回り米作りが生産として成り立つのは、広い耕作地を持つと考えられる北海道だけなのである。
  • 日本の農業はもはや、TPPに参加するかどうかで壊滅的な打撃を受ける段階ではないことが分かる。ずっと以前にその競争力は失われていたにもかかわらず、なるに任せてきたのである。酪農や肉用牛などは厳しい競争を強いられる可能性がある。つまり、TPPの参加に際して、すべての農家が一律に特別の保護が必要とはされない。徹底的に分析することにより、問題を絞りこんできめ細かい政策を取ったならば、TPPをかなり受け入れやすい状態が出てくるように見える。
  • 農業が真に国民にとって大事であるというコンセンサスが得られるならば、当低無理な競争を強いるのではなく、TPP参加によって得られた増加利益を農業の真に必要な部分に再分配するべきである。TPP参加を望む99%はその程度の覚悟を持って1%を援助すべきである。
  • 日本は米国を中心としたグループに属するのか、中国を中心としたグループに属するのかという問題である。そして日本は両方に属し、両方を天秤にかけ、その均衡の上に国益を最大にすることを考えなければならない。日本がどちらに軸足を置くかによって、東アジアにおけるパワーバランスは著しく異なった結果となるため、日本がTPPに参加の検討を始めると表明したと同時に、中国は東アジアのFTAにインドが加盟することに難色を示していたのが、それを容認するかの姿勢を見せ始めている。日本は今までにないバーゲニング・パワーを手に入れたのである。今、ASEANプラス6を合意しなければならない。これ以上の交渉力のある時期は訪れないであろう。
  • 日本の国益を守り日本の主張を貫き通すためにも、ASEANプラス6という強力な通商同盟を築くべきだ。
『日経ビジネスオンライン』より

2011/12/10

111210 ドリーム苫小牧GC


IN +4×+4+4□△△+4△ 60(19)
OUT +6−−□×−×−− 50(16)=110(35)

まさか12月にプレーできるとは思っていなかった。スタート時は0度くらいだったと思うが、次第に気温も上がってまずまずのコンディションだった。しかし前回の編集局コンペから全く練習していない上、体も動いておらず、前半はシャンクを連発した。SWも全く打てなかった。下が凍っているのを気にしたこともあり、手打ちの大根切りトップになっていたのだろう。勝成流にインパクトで止めるようにしようとしたのも逆効果だったのかもしれない。
1WはOBを1回出したがまずまずだった。1Wに限らず、クラブはゆっくり振る方が良い。後半は100y前後からはPWの転がしに徹したこともあってミスが減り始め、奇跡的なパットもあってパーが5つも取れた。全体でOBは3回、バンカーに4回入れて脱出に計6打。これらをなくすだけでこの日のような状態でも100は切れると思うと、やはりOBとバンカーは徹底的に避けなければならない。
パターは2ボールを使用。大甘OKもあったが35パットは良かった。距離感は全体的にショート目だった。
この日のようなカチンカチンの時だけでなく、夏でもPWのランニングをうまく使えるとスコアがまとまるのだろう。自分のレベルでは80~100yはピンに寄せるのではなく、バンカーに入れたりシャンクをしないミスの防止を優先すべき距離だ。SWはバンカー越えかバンカー内くらいしか必要ないのかもしれない。

2011/10/23

111023 羊ヶ丘CC


OUT ×△□×△□△□△ 52(20)
IN +4△+5△+5□+5×△ 63(20)=115(40)
初めてのコース、降りしきる雨、と言い訳はいろいろできなくもないが、これが実力だ。OBを含めた大ミスは前日の芙蓉と同様、すべて右に行ったもので引っ掛けやチーピンではなかった。芝が湿っていたこともあり、フックグリップでしっかり打つべきだったのだろう。1Wもスライスしたのが何度かあった。
アイアンのダフりも多かった。ハンドファーストに構えて早く手首を返してしまったらダフるのは当たり前だ。100y前後からも相変わらずだめだった。9IやPWで、左右に行く以前にしっかりとらえられない。
パターも1m前後を何度も外し、ダボやトリにしてしまった。距離感もさっぱり。上手な人が2ボールのマレットを使っているのに、下手くその自分が難しいピンで入るわけがない。
今年最後のラウンドが散々で残念だった。雨やひどいスコアのせいかもしれないが、プレーがあまり楽しくなかった。夜はクルマをこすってしまい、不運な一日だったが、すべて自分に原因があり、必然だ。
来年は仕事もどうなるか分からないが、回数は減らしていくべきかと思う。

2011/10/22

111022 芙蓉CC


北 △□□×△△□△△ 50(20)
南 △×+4□-□△-△ 50(18)=100(38)
久々だが、わりと得意のはずの芙蓉でミスのオンパレードだった。バンカーに3回入れ、課題だった100y前後からの精度も上げられなかった。
南3番は170yのパー3で、第1打の4Uが大ダフりで右の斜面残り40y程度。SWで慎重に打ったがバンカー。やや湿った砂で脱出に3打かかった。ここに限らず力んでダフり、というのが数回あった。
1Wはジャストミートこそ少なかったがまずまずだった。北7番では7Iで右に打ち出してOBをやった。引っ掛けまいとするあまり右に出てしまったのだろうか。最初から方向が間違っていたか。
グリーンは前回のゴールドとは一変してかなり速く、5歩から3パットもあった。強く打ちすぎるのが目立った。
パーなら99だった最後の南9番は8歩のフックラインを外した。最初からこれくらいの緊張感と慎重さでいかなくてはいけないのだろう。

2011/10/17

111016 ゴールドCC


IN ×△△△□△△× 50(17)
OUT △□△□−△□□□ 49(18)=99(35)

久々の「やさしい」ゴールドで何とかやっとこさ99で済んだ。ビッグイニングはなかったが、トリを2回叩いた。雨で固まっているバンカーにも3回入れた。いずれも1回で脱出できたのは幸いだった。
今回も120yくらいからまったく乗らなかった。SWでシャンク気味に右に飛び出たのもあった。アプローチは高さよりも距離よりも方向性をより重視すべきことを忘れていた。60度も何度か使ったが、SWでよかった気もする。
パットは湿ったグリーンで遅く、甘めOKも何度かあったこともあり、なんと3パットがなかった。初めてではないだろうか。ただ3~4mで入れられそうなのを何度か外した。
ティーショットはすべて1Wで打った。右に出たのが多かったけれどまずまずだった。左を恐れず、体をもっとしっかり回した方がよいかもしれない。

2011/10/09

Stay Hungry, Stay Foolish



 世界でもっとも優秀な大学の卒業式に同席できて光栄です。私は大学を卒業したことがありません。実のところ、きょうが人生でもっとも大学卒業に近づいた日です。本日は自分が生きてきた経験から、3つの話をさせてください。たいしたことではない。たった3つです。
 まずは、点と点をつなげる、ということです。
 私はリード大学をたった半年で退学したのですが、本当に学校を去るまでの1年半は大学に居座り続けたのです。ではなぜ、学校をやめたのでしょうか。
 私が生まれる前、生みの母は未婚の大学院生でした。母は決心し、私を養子に出すことにしたのです。母は私を産んだらぜひとも、だれかきちんと大学院を出た人に引き取ってほしいと考え、ある弁護士夫婦との養子縁組が決まったのです。ところが、この夫婦は間際になって女の子をほしいと言いだした。こうして育ての親となった私の両親のところに深夜、電話がかかってきたのです。「思いがけず、養子にできる男の子が生まれたのですが、引き取る気はありますか」と。両親は「もちろん」と答えた。生みの母は、後々、養子縁組の書類にサインするのを拒否したそうです。私の母は大卒ではないし、父に至っては高校も出ていないからです。実の母は、両親が僕を必ず大学に行かせると約束したため、数カ月後にようやくサインに応じたのです。
 そして17年後、私は本当に大学に通うことになった。ところが、スタンフォード並みに学費が高い大学に入ってしまったばっかりに、労働者階級の両親は蓄えのすべてを学費に注ぎ込むことになってしまいました。そして半年後、僕はそこまで犠牲を払って大学に通う価値が見いだせなくなってしまったのです。当時は人生で何をしたらいいのか分からなかったし、大学に通ってもやりたいことが見つかるとはとても思えなかった。私は、両親が一生かけて蓄えたお金をひたすら浪費しているだけでした。私は退学を決めました。何とかなると思ったのです。多少は迷いましたが、今振り返ると、自分が人生で下したもっとも正しい判断だったと思います。退学を決めたことで、興味もない授業を受ける必要がなくなった。そして、おもしろそうな授業に潜り込んだのです。
 とはいえ、いい話ばかりではなかったです。私は寮の部屋もなく、友達の部屋の床の上で寝起きしました。食べ物を買うために、コカ・コーラの瓶を店に返し、5セントをかき集めたりもしました。温かい食べ物にありつこうと、毎週日曜日は7マイル先にあるクリシュナ寺院に徒歩で通ったものです。
 それでも本当に楽しい日々でした。自分の興味の赴くままに潜り込んだ講義で得た知識は、のちにかけがえがないものになりました。たとえば、リード大では当時、全米でおそらくもっとも優れたカリグラフの講義を受けることができたました。キャンパス中に貼られているポスターや棚のラベルは手書きの美しいカリグラフで彩られていたのです。退学を決めて必須の授業を受ける必要がなくなったので、カリグラフの講義で学ぼうと思えたのです。ひげ飾り文字を学び、文字を組み合わせた場合のスペースのあけ方も勉強しました。何がカリグラフを美しく見せる秘訣なのか会得しました。科学ではとらえきれない伝統的で芸術的な文字の世界のとりこになったのです。
 もちろん当時は、これがいずれ何かの役に立つとは考えもしなかった。ところが10年後、最初のマッキントッシュを設計していたとき、カリグラフの知識が急によみがえってきたのです。 そして、その知識をすべて、マックに注ぎ込みました。美しいフォントを持つ最初のコンピュー ターの誕生です。もし大学であの講義がなかったら、マックには多様なフォントや字間調整機能も入っていなかったでしょう。ウィンドウズはマックをコピーしただけなので、パソコンにこうした機能が盛り込まれることもなかったでしょう。もし私が退学を決心していなかったら、あのカリグラフの講義に潜り込むことはなかったし、パソコンが現在のようなすばらしいフォントを備えることもなかった。もちろん、当時は先々のために点と点をつなげる意識などありませんでした。しかし、いまふり返ると、将来役立つことを大学でしっかり学んでいたわけです。
 繰り返しですが、将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。運命、カルマ...、何にせよ我々は何かを信じないとやっていけないのです。私はこのやり方で後悔したことはありません。むしろ、今になって大きな差をもたらしてくれたと思います。
 2つ目の話は愛と敗北です。
 私は若い頃に大好きなことに出合えて幸運でした。共同創業者のウォズニアックとともに私の 両親の家のガレージでアップルを創業したのは20歳のときでした。それから一生懸命に働き、10年後には売上高20億ドル、社員数4000人を超える会社に成長したのです。そして我々の最良の商品、マッキントッシュを発売したちょうど1年後、30歳になったときに、私は会社から解雇されたのです。自分で立ち上げた会社から、クビを言い渡されるなんて。
 実は会社が成長するのにあわせ、一緒に経営できる有能な人材を外部から招いたのです。最初の1年はうまくいっていたのですが、やがてお互いの将来展望に食い違いがでてきたのです。そして最後には決定的な亀裂が生まれてしまった。そのとき、取締役会は彼に味方したのです。それで30歳のとき、私は追い出されたのです。それは衆知の事実となりました。私の人生をかけて築いたものが、突然、手中から消えてしまったのです。これは本当にしんどい出来事でした。
 1カ月くらいはぼうぜんとしていました。私にバトンを託した先輩の起業家たちを失望させてしまったと落ち込みました。デビッド・パッカードやボブ・ノイスに会い、台無しにしてしまったことをわびました。公然たる大失敗だったので、このまま逃げ出してしまおうかとさえ思いました。しかし、ゆっくりと何か希望がわいてきたのです。自分が打ち込んできたことが、やはり大好きだったのです。アップルでのつらい出来事があっても、この一点だけは変わらなかった。会社を追われはしましたが、もう一度挑戦しようと思えるようになったのです。
 そのときは気づきませんでしたが、アップルから追い出されたことは、人生でもっとも幸運な出来事だったのです。将来に対する確証は持てなくなりましたが、会社を発展させるという重圧は、もう一度挑戦者になるという身軽さにとってかわりました。アップルを離れたことで、私は人生でもっとも創造的な時期を迎えることができたのです。
 その後の5年間に、NeXTという会社を起業し、ピクサーも立ち上げました。そして妻になるすばらしい女性と巡り合えたのです。ピクサーは世界初のコンピューターを使ったアニメーション映画「トイ・ストーリー」を製作することになり、今では世界でもっとも成功したアニメ製作会社になりました。そして、思いがけないことに、アップルがNeXTを買収し、私はアップルに舞い戻ることになりました。いまや、NeXTで開発した技術はアップルで進むルネサンスの中核となっています。そして、ロレーンとともに最高の家族も築けたのです。
 アップルを追われなかったら、今の私は無かったでしょう。非常に苦い薬でしたが、私にはそういうつらい経験が必要だったのでしょう。最悪のできごとに見舞われても、信念を失わないこと。自分の仕事を愛してやまなかったからこそ、前進し続けられたのです。皆さんも大好きなことを見つけてください。仕事でも恋愛でも同じです。仕事は人生の一大事です。やりがいを感じることができるただ一つの方法は、すばらしい仕事だと心底思えることをやることです。そして偉大なことをやり抜くただ一つの道は、仕事を愛することでしょう。好きなことがまだ見つからないなら、探し続けてください。決して立ち止まってはいけない。本当にやりたいことが見つかった時には、不思議と自分でもすぐに分かるはずです。すばらしい恋愛と同じように、時間がたつごとによくなっていくものです。だから、探し続けてください。絶対に、立ち尽くしてはいけません。
 3つ目の話は死についてです。
 私は17歳のときに「毎日をそれが人生最後の一日だと思って生きれば、その通りになる」と いう言葉にどこかで出合ったのです。それは印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしているのです。「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていることをするだろうか」と。「違う」という答えが何日も続くようなら、何かを変えなければならない時期にきているということです。
 自分はまもなく死ぬという認識が、重大な決断を下すときに一番役立つのです。なぜなら、永遠の希望やプライド、失敗する不安...これらはほとんどすべて、死の前には何の意味もなさなくなるからです。本当に大切なことしか残らない。自分は死ぬのだと思い出すことが、敗北する不安にとらわれない最良の方法です。我々はみんな最初から裸です。自分の心に従わない理由はないのです。
 1年前、私はがんと診断されました。朝7時半に診断装置にかけられ、膵臓(すいぞう)に明白な腫瘍が見つかったのです。私は膵臓が何なのかさえ知らなかった。医者はほとんど治癒の見込みがないがんで、もっても半年だろうと告げたのです。医者からは自宅に戻り身辺整理をするように言われました。つまり、死に備えろという意味です。これは子どもたちに今後10年かけて伝えようとしていたことを、たった数カ月で語らなければならないということです。家族が安心して暮らせるように、すべてのことをきちんと片付けなければならない。別れを告げなさい、と言われたのです。
 一日中診断結果のことを考えました。その日の午後に生検を受けました。のどから入れられた内視鏡が、胃を通って腸に達しました。膵臓に針を刺し、腫瘍細胞を採取しました。鎮痛剤を飲んでいたので分からなかったのですが、細胞を顕微鏡で調べた医師たちが騒ぎ出したと妻がいうのです。手術で治療可能なきわめてまれな膵臓がんだと分かったからでした。
 人生で死にもっとも近づいたひとときでした。今後の何十年かはこうしたことが起こらないことを願っています。このような経験をしたからこそ、死というものがあなた方にとっても便利で大切な概念だと自信をもっていえます。
 誰も死にたくない。天国に行きたいと思っている人間でさえ、死んでそこにたどり着きたいとは思わないでしょう。死は我々全員の行き先です。死から逃れた人間は一人もいない。それは、あるべき姿なのです。死はたぶん、生命の最高の発明です。それは生物を進化させる担い手。古いものを取り去り、新しいものを生み出す。今、あなた方は新しい存在ですが、いずれは年老いて、消えゆくのです。深刻な話で申し訳ないですが、真実です。
 あなた方の時間は限られています。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください。ドグマにとらわれてはいけない。それは他人の考えに従って生きることと同じです。他人の考えに溺れるあまり、あなた方の内なる声がかき消されないように。そして何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。あなた方の心や直感は、自分が本当は何をしたいのかもう知っているはず。ほかのことは二の次で構わないのです。
 私が若いころ、全地球カタログ(The Whole Earth Catalog)というすばらしい本に巡り合いました。私の世代の聖書のような本でした。スチュワート・ブランドというメンロパークに住む男性の作品で、詩的なタッチで躍動感がありました。パソコンやデスクトップ出版が普及する 前の1960年代の作品で、すべてタイプライターとハサミ、ポラロイドカメラで作られていた。 言ってみれば、グーグルのペーパーバック版です。グーグルの登場より35年も前に書かれたの です。理想主義的で、すばらしい考えで満ちあふれていました。
 スチュワートと彼の仲間は全地球カタログを何度か発行し、一通りやり尽くしたあとに最終版を出しました。70年代半ばで、私はちょうどあなた方と同じ年頃でした。背表紙には早朝の田舎道の写真が。あなたが冒険好きなら、ヒッチハイクをする時に目にするような風景です。その写真の下には「ハングリーなままであれ。愚かなままであれ」と書いてありました。筆者の別れの挨拶でした。ハングリーであれ。愚か者であれ。私自身、いつもそうありたいと思っていま す。そして今、卒業して新たな人生を踏み出すあなた方にもそうあってほしい。
 ハングリーであれ。愚か者であれ。
 ありがとうございました。

I am honored to be with you today at your commencement from one of the finest universities in the world. I never graduated from college. Truth be told, this is the closest I've ever gotten to a college graduation. Today I want to tell you three stories from my life. That's it. No big deal. Just three stories.
The first story is about connecting the dots.
I dropped out of Reed College after the first 6 months, but then stayed around as a drop-in for another 18 months or so before I really quit. So why did I drop out?
It started before I was born. My biological mother was a young, unwed college graduate student, and she decided to put me up for adoption. She felt very strongly that I should be adopted by college graduates, so everything was all set for me to be adopted at birth by a lawyer and his wife. Except that when I popped out they decided at the last minute that they really wanted a girl. So my parents, who were on a waiting list, got a call in the middle of the night asking: "We have an unexpected baby boy; do you want him?" They said: "Of course." My biological mother later found out that my mother had never graduated from college and that my father had never graduated from high school. She refused to sign the final adoption papers. She only relented a few months later when my parents promised that I would someday go to college.
And 17 years later I did go to college. But I naively chose a college that was almost as expensive as Stanford, and all of my working-class parents' savings were being spent on my college tuition. After six months, I couldn't see the value in it. I had no idea what I wanted to do with my life and no idea how college was going to help me figure it out. And here I was spending all of the money my parents had saved their entire life. So I decided to drop out and trust that it would all work out OK. It was pretty scary at the time, but looking back it was one of the best decisions I ever made. The minute I dropped out I could stop taking the required classes that didn't interest me, and begin dropping in on the ones that looked interesting.
It wasn't all romantic. I didn't have a dorm room, so I slept on the floor in friends' rooms, I returned coke bottles for the 5 ― deposits to buy food with, and I would walk the 7 miles across town every Sunday night to get one good meal a week at the Hare Krishna temple. I loved it. And much of what I stumbled into by following my curiosity and intuition turned out to be priceless later on. Let me give you one example:
Reed College at that time offered perhaps the best calligraphy instruction in the country. Throughout the campus every poster, every label on every drawer, was beautifully hand calligraphed. Because I had dropped out and didn't have to take the normal classes, I decided to take a calligraphy class to learn how to do this. I learned about serif and san serif typefaces, about varying the amount of space between different letter combinations, about what makes great typography great. It was beautiful, historical, artistically subtle in a way that science can't capture, and I found it fascinating.
None of this had even a hope of any practical application in my life. But ten years later, when we were designing the first Macintosh computer, it all came back to me. And we designed it all into the Mac. It was the first computer with beautiful typography. If I had never dropped in on that single course in college, the Mac would have never had multiple typefaces or proportionally spaced fonts. And since Windows just copied the Mac, it's likely that no personal computer would have them. If I had never dropped out, I would have never dropped in on this calligraphy class, and personal computers might not have the wonderful typography that they do. Of course it was impossible to connect the dots looking forward when I was in college. But it was very, very clear looking backwards ten years later.
Again, you can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future. You have to trust in something ― your gut, destiny, life, karma, whatever. This approach has never let me down, and it has made all the difference in my life.
My second story is about love and loss.
I was lucky I found what I loved to do early in life. Woz and I started Apple in my parents garage when I was 20. We worked hard, and in 10 years Apple had grown from just the two of us in a garage into a $2 billion company with over 4000 employees. We had just released our finest creation ―the Macintosh― a year earlier, and I had just turned 30. And then I got fired. How can you get fired from a company you started? Well, as Apple grew we hired someone who I thought was very talented to run the company with me, and for the first year or so things went well. But then our visions of the future began to diverge and eventually we had a falling out. When we did, our Board of Directors sided with him. So at 30 I was out. And very publicly out. What had been the focus of my entire adult life was gone, and it was devastating.
I really didn't know what to do for a few months. I felt that I had let the previous generation of entrepreneurs down - that I had dropped the baton as it was being passed to me. I met with David Packard and Bob Noyce and tried to apologize for screwing up so badly. I was a very public failure, and I even thought about running away from the valley. But something slowly began to dawn on me I still loved what I did. The turn of events at Apple had not changed that one bit. I had been rejected, but I was still in love. And so I decided to start over.
I didn't see it then, but it turned out that getting fired from Apple was the best thing that could have ever happened to me. The heaviness of being successful was replaced by the lightness of being a beginner again, less sure about everything. It freed me to enter one of the most creative periods of my life.
During the next five years, I started a company named NeXT, another company named Pixar, and fell in love with an amazing woman who would become my wife. Pixar went on to create the worlds first computer animated feature film, Toy Story, and is now the most successful animation studio in the world. In a remarkable turn of events, Apple bought NeXT, I returned to Apple, and the technology we developed at NeXT is at the heart of Apple's current renaissance. And Laurene and I have a wonderful family together.
I'm pretty sure none of this would have happened if I hadn't been fired from Apple. It was awful tasting medicine, but I guess the patient needed it. Sometimes life hits you in the head with a brick. Don't lose faith. I'm convinced that the only thing that kept me going was that I loved what I did. You've got to find what you love. And that is as true for your work as it is for your lovers. Your work is going to fill a large part of your life, and the only way to be truly satisfied is to do what you believe is great work. And the only way to do great work is to love what you do. If you haven't found it yet, keep looking. Don't settle. As with all matters of the heart, you'll know when you find it. And, like any great relationship, it just gets better and better as the years roll on. So keep looking until you find it. Don't settle.
My third story is about death.
When I was 17, I read a quote that went something like: "If you live each day as if it was your last, someday you'll most certainly be right." It made an impression on me, and since then, for the past 33 years, I have looked in the mirror every morning and asked myself: "If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?" And whenever the answer has been "No" for too many days in a row, I know I need to change something.
Remembering that I'll be dead soon is the most important tool I've ever encountered to help me make the big choices in life.Because almost everything ― all external expectations, all pride, all fear of embarrassment or failure - these things just fall away in the face of death, leaving only what is truly important. Remembering that you are going to die is the best way I know to avoid the trap of thinking you have something to lose. You are already naked. There is no reason not to follow your heart.
About a year ago I was diagnosed with cancer. I had a scan at 7:30 in the morning, and it clearly showed a tumor on my pancreas. I didn't even know what a pancreas was. The doctors told me this was almost certainly a type of cancer that is incurable, and that I should expect to live no longer than three to six months. My doctor advised me to go home and get my affairs in order, which is doctor's code for prepare to die. It means to try to tell your kids everything you thought you'd have the next 10 years to tell them in just a few months. It means to make sure everything is buttoned up so that it will be as easy as possible for your family. It means to say your goodbyes.
I lived with that diagnosis all day. Later that evening I had a biopsy, where they stuck an endoscope down my throat, through my stomach and into my intestines, put a needle into my pancreas and got a few cells from the tumor. I was sedated, but my wife, who was there, told me that when they viewed the cells under a microscope the doctors started crying because it turned out to be a very rare form of pancreatic cancer that is curable with surgery. I had the surgery and I'm fine now.
This was the closest I've been to facing death, and I hope it's the closest I get for a few more decades. Having lived through it, I can now say this to you with a bit more certainty than when death was a useful but purely intellectual concept:
No one wants to die. Even people who want to go to heaven don't want to die to get there. And yet death is the destination we all share. No one has ever escaped it. And that is as it should be, because Death is very likely the single best invention of Life. It is Life's change agent. It clears out the old to make way for the new. Right now the new is you, but someday not too long from now, you will gradually become the old and be cleared away. Sorry to be so dramatic, but it is quite true.
Your time is limited, so don't waste it living someone else's life. Don't be trapped by dogma ―which is living with the results of other people's thinking. Don't let the noise of others' opinions drown out your own inner voice. And most important, have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become. Everything else is secondary.
When I was young, there was an amazing publication called The Whole Earth Catalog, which was one of the bibles of my generation. It was created by a fellow named Stewart Brand not far from here in Menlo Park, and he brought it to life with his poetic touch. This was in the late 1960's, before personal computers and desktop publishing, so it was all made with typewriters, scissors, and polaroid cameras. It was sort of like Google in paperback form, 35 years before Google came along: it was idealistic, and overflowing with neat tools and great notions.
Stewart and his team put out several issues of The Whole Earth Catalog, and then when it had run its course, they put out a final issue. It was the mid-1970s, and I was your age. On the back cover of their final issue was a photograph of an early morning country road, the kind you might find yourself hitchhiking on if you were so adventurous. Beneath it were the words: "Stay Hungry. Stay Foolish." It was their farewell message as they signed off. Stay Hungry. Stay Foolish. And I have always wished that for myself. And now, as you graduate to begin anew, I wish that for you.
Stay Hungry. Stay Foolish.
Thank you all very much.

2011/10/06

RIP

Remembering that you are going to die is the best way I know to avoid the trap of thinking you have something to lose. You are already naked. There is no reason not to follow your heart.
本当に世界を変えられると本気で信じ、そして本当に世界を変えた、あなたでした。

2011/09/19

110919 ツキサップ


OUT □+5□△△△-△△ 50(15)
IN △×△△□△-△□ 48(18)=98(33)

久々にしかもツキサップで100を切ることができた。パットがまずまずだったのとバンカーに3回入れたがいずれも1回で脱出できたのが大きかった。特に18番はあれだけ気をつけたにもかかわらず3打目の9Iをバンカーに入れてしまい、一瞬「またか」と覚悟したが何とか大けがにはならずに済んだ。
ティーショットは最初2Uを使った。朝イチは真っすぐ飛んだが、次から右に出たり引っ掛けそうだったので、途中から1Wにしたところ、わりと良かった。的が大きい分、ダフりの心配がないのでやはり1Wの方がいいかもしれない。ドラコンが懸った12番は今季最高の1Wだったが、専務に5y負けてしまった。
アプはほとんどSW。やや右に出るのが多かったが距離感はまずまずだった。ただ60度とAWを含めてざっくりが3、4回はあった。 100~120yのAW~9Iが全部だめで、この距離から一度も乗らなかった。2番では危うく2回連続OBを打つところだった。
パターはこの日もピンを使用。オーバーが多かったような気がする。16番パー3では10歩くらいの下りのフックラインが奇跡的に入った。これも強めでカップに入らなかったらグリーンオーバーしていたと思う。
このほかSWでのチップインもあり、ラッキーが多かった。ダボは仕方ないとしてもやはりビッグイニングを作ってはいけない。

2011/09/16

信用されないメディア


日経ビジネスオンライン9月16日付
「小田島隆のア・ピース・オブ・警句」より

新聞は、簡単に信用してもらえないメディアになっている。
新聞のせいなのか、読者のせいなのか。それとも時代や社会の変化がそうさせているのか。理由は簡単には特定できないが、とにかく、新聞は裏読みをされる。そういうメディアになってしまっている。
ほんの10年前まで、新聞は、文字通り社会の木鐸だった。
日本に住んでいるほぼ全世帯の日本人が、何らかの新聞を定期購読していたし、そうやって宅配されてくる新聞は、ほとんどすべの国民に信頼されていた。
20世紀の新聞が現在の新聞よりも優れていたと言いたいのではない。
あの時代は、新聞をはじめとするマスコミの役割が今よりもずっと大きかったということを私は言おうとしている。
昭和の時代にはインターネットも無かったし、携帯電話もSNSも無かった。ということは、マスメディアを相対化する情報源がそもそも存在すらしていなかったわけで、それゆえ、新聞とテレビのプレゼンスは、現在とは比べ物にならないほど巨大だったのである。
であるから、昭和の庶民は、「テレビでCMを打っている会社は信用して大丈夫だ」と考えていたし、「新聞が書くことは基本的には本当のことだ」というふうに思い込んでもいた。
実際にも、昭和の時代にテレビでCMを打っている企業は、信頼のおける一流企業に限られていた。現在とは大違いだ。
新聞広告についても同様だ。かつて、クオリティーペーパーに広告を載せている企業の商品は、ほぼそのまま信用することができた。現在は、そういうわけにはいかない。ある程度疑ってかからないとひどい目に遭う。
で、その巨大な信頼に対応する形で、マスメディアの側にも、一定の緊張感があった。読者および視聴者は、自分たちの配信する記事をほぼ鵜呑みにしている。そのことを踏まえた上で報道せねばならない、と、だから、昭和の記者は、現在の記者さんたちと比べてより慎重だったかもしれない。まあ、現在の時点で、それら二つを並べて見比べてみるわけにもいかない以上、本当のところはわからないが、とにかく、現在の新聞に比べて、昭和の新聞がより信頼されていたことはたしかだったのである。内実はどうあれ。
新聞に対する信頼は、料金を支払って購読しているところから生じていた可能性もある。
普通に考えれば順序は逆だ。人はある商品を信頼するからこそ、その商品に対して対価を支払う、と、そう考えるのが自然だ。
が、実際には、必ずしもそうではない。
人は、自分が代金を支払っているということを理由にその媒体を信頼していたりする。
新聞の場合はおそらくそうだったはずだ。
新聞の経営基盤を支えていたのも、そうした「信頼」と「定期購読」という巨大な安定収入だった。
それゆえ、新聞社は、世界各地に支局を置き、特派員を養い、部門別に専門の記者を育て、情報の裏取りに許す限りの時間と費用をかけて、記事の信頼性を担保してきた。
それが、インターネットが普及して、無料で読めるウェブ上のニュースメディアが充実すると、若い世代は新聞にカネを払わなくなる。紙の新聞なんて、無くても間に合うじゃないか、と、彼らはモロにそう考えている。
と、毎日タダで新聞を読んでいる彼らは、いつしか記事に対して昭和の人間が抱いていた「天然の敬意」を喪失する。
それどころか、「情報は疑ってかかるのがリテラシーだぞ」ぐらいな一種ひねくれた感覚が、ウェブにぶらさがっている人間たちのデフォルト設定になってしまっている。彼らは、マトモに書かれた記事をマトモに読もうとしない。やたらと裏読みをしたがる。素直に読むよりは、裏を読む方が高度な読み方なのだと、彼らは半ば本気でそう考えている。のみならず、書かれていることより、書かれなかった部分に真実が宿っていると考えていたりする。ゴルゴ13に出てくるモサドの工作員みたいに。
たしかに、記事によっては、行間に真実が隠されている場合もあるのだろうし、ある種の芸能情報や国際関係の報道では、書かれた事実よりも、オミットされた情報により致命的な真実が宿っているものなのかもしれない。
とはいえ、世界中がゴルゴ13の論理で動いているわけではない。
大部分の世界は、真面目な記者が真面目に書いた記事に最も近い形をしている(はずだ)。少なくとも、私はそう考えている。
昭和の時代でもたとえば、ジャニーズ関連の記事には裏読みが必要だった。
「マッチと××の◯◯って、あれ実質的には△△だよな」
と、われわれは、顔を合わせると、芸能記事の裏読みを競ったものだった。
それが、現代の読者は、あらゆる記事を裏から読もうとする。どうかしていると思う。
私のような旧世代の人間から見ると、マスメディアや記者クラブの悪口を並べてさえいればツイッターや2ちゃんねるで人気者になれる現在の状況は、昭和の時代とは逆の意味で病んでいる。
無論、マスメディアに腐敗が無いわけではないし、記者クラブにだって言われているような特有の弊害があるはずだ。とはいえ、長年積み上げてきた彼らのやり方にはそれなりの実効性がある。でなくても、これだけの情報資産を全否定して良いはずがない。
マスメディアの情報が鵜呑みにされすぎて来た20世紀の反動だとは思うのだが、それにしても、この数年、あまりにも陰謀史観が幅をきかせすぎている。フジテレビの「韓流推し」問題にしてもそうだし、今回の「鉢呂発言」に対する分析でも同様だ。メディアの報道に、行き過ぎや偏向を見出すところまでは理解できるとして、それをただちに「陰謀」だと決めつける態度は、やはりどうかしている。
ウェブ上の新聞記事を有料化する動きは、徐々にではあるが、確実に進んでいる。
で、その動きに伴って、新聞各社は、無料配信の記事の中味を少しずつ薄っぺらにしてきている。5年前と比べてみれば明らかだ。新聞社が提供している無料サイトは、もはや新聞のタダ読みを許すページではなくなっている。検索エンジンの会社やポータルサイトにニュースを売る場合を除けば、あとは、有料ウェブ版への導入路にしたいという意図がはっきりしている。
結果、学芸欄の記事や、有名人のインタビューや、よりきめの細かいニュースネタや、過去記事の検索といった魅力的なコンテンツは、有料化版に引き上げられつつある。まあ、彼らだって商売なのだから当然といえば当然ではある。
現在は、過渡期にあるということなのだろう。
紙の新聞がかつて担っていた「社会の木鐸」(あるいはメタ情報)の座は、「空位」になっている。
といって、電子版への移行は、遅々として進んでいない。
で、われわれの前には、ツイッター発のデマと、2ちゃんねるに蝟集する排外的なレイシズムと、メールを装った無数の詐欺広告が横たわっているわけだ。
今後、既存の新聞社なり新たな情報メディアなりが、確固たる木鐸の地位を築く(そんな時代は永遠に来ないのかもしれないが)までの間、混乱は続くだろう。
と、疑ってかかることがリテラシーだとする卑しい人間観がわれわれを毒していくことになるのだろう。
今回は、オチが見つからない。
うんざりするところから始めたので、うんざりして終わりにしたいと思う。
来週は明るい話題が見つかると良いな(笑)。

2011/09/12

110911 北広島東


OUT △××-□△△□+4 53(21)
IN ×△□△△△-□□ 49(18)=102(39)

特に何かが悪かったわけではなく、全体的に技術不足ということだった。伸びたラフが湿っていてきつかった。9番の+4は残り30y程度のラフから第5打のSWがグリーンを大オーバー。次で何とかエッジまで寄せられたが3パットした。今回はSWを多用したが距離感がほとんど合わなかった。
第1打はすべてU2かU4。右には行かなかったが引っ掛けが何回かあった。ただ、第2打を出すだけというのはなかったと思う。最大のテーマだったバンカーには2回入れてしまった。ともに1打で脱出はできたが。
パターはピン。2~3mが何度か入ったがOK2パットは少なかった。
課題はやはりしっかりとボギーオンすること。毎度のことだが第1打と100y以内のアプローチだろう。

2011/09/04

日本人は戦争を選んだ


●1930年代の日本と現代のアメリカには共通点がある
●膨大な戦死者が出たとき国家は新たな『憲法』を必要とする
●戦争とは相手国の憲法を書き換えるもの
●歴史は教訓を与え、それが人類に災厄をもたらすことも
●アメリカの歴史の誤用=『中国喪失』のトラウマがベトナム戦争の泥沼化を導いた
●主権線=主権の及ぶ国土の範囲、利益線=国土の存亡に関わる外国の状態
●「民党は新たな領土(植民地)の官僚ポストを取れ」(福沢諭吉)
●戦争で得たものを外交の失敗で奪われた。もう政府に勝手なことはさせない→普通選挙運動へ
●日露戦争の犠牲者数、日本=戦死者8万4千人、戦傷者14万3千人、ロシア=戦死者5万人、戦傷者22万人
●満州事変の根っこには日露戦争の記憶を巡る日中間の戦いがあった
●欧米に向けて語る戦争正当化の論理と日本にとっての本当に重要なものとはずれていた
●「門戸開放」が戦争のプロパガンダになる
●戦争のための増税で有権者が戦前の2倍になり政治家の質も変わった
●第一次世界大戦の犠牲者数 世界全体=戦死者1千万人、戦傷者2千万人、日本=戦死傷者1250人
●日本は安全保障上の利益を第一目的として植民地を獲得した
●帝国国防方針の仮想敵国、1907年=ロシア、1918年=ロシア、アメリカ、中国、1923年=アメリカ
●第一次世界大戦の始まりからイギリス、アメリカへの反感が芽生えていた
●満州事変2カ月前のアンケート「武力行使は正当か」東大生88%が「然り」
●清朝とロシア帝国の崩壊→日露戦争で締結された条約に関する日中の解釈の違いが浮き彫りに
●満蒙への投資のうち85%が国絡み→健全な批判が起きにくかった
●連盟規約16条=連盟が解決に努めているとき新たな戦争に訴えた国はすべての連盟国の敵とみなす
●「農山漁村の疲弊の救済は最も重要」(陸軍パンフレット)
●アメリカとの戦争開始で天皇を説得する際、大坂冬の陣を教訓として使った
●アメリカが日本の南進に報復したのはドイツ戦で苦しいソ連を力づけるためだった
●ドイツは共産主義を倒すため合理的な中国との取引を捨てて日本を選んだ
●戦死者の9割が最後の1年半に死亡した
●終戦時、満州にいた日本人200万人、そのうちソ連侵攻後の死者数24万5千人
●満州移民で自治体に補助金、首長が村民を積極的に勧誘

確かに「戦争」を「原発」と読み替えてもほとんど通じてしまう。



2011/08/21

110819 ツキサップ


OUT □□□△-△□+4□ 52(19)
IN +4□△△×+4-+5+8 64(23)=116(42)

最後の大叩きはバンカーでOBを含む6打&3パットが要因。前回も前々回もこのホールで大叩きしたのを忘れていた。
ツキサップは難しいが結構好きなコースだ。多くのホールでグリーン手前に大きなバンカーが口を開けていて、自分のようなバンカー下手には本当に難しい。狙い所にしっかり打たないとこの日のように大崩れしてしまう。だから挑みがいもある。
100y前後から9Iでの転がしを何回も試したが、ほとんどグリーン手前のラフに止まってしまい、うまく乗ったのは一度もなかったと思う。やはりAWやSWでこつこつ打つのも必要なのかもしれない。自分のような練習不足の者に100yからの転がしは難しい。ライ次第で使い分けることも下手なりに必要だろう。
パターは前半は良かったが、後半は集中を切らしたせいもあるが散々だった。方向も距離感も全くだめだった。
今後はバンカーに入れず、トリを叩かない、4パットしないことを最優先にやっていこう。

2011/08/08

110807 北広島東


OUT △×□-△△□×- 49(15)
IN ×△□△-△×□□ 51(20)=100(35)

この前まわったばかりの東だったのにミスばかりだった。第1打は1Wをやめて4Uを使ったが、大フックや右プッシュが少なからずあった。バンカーには2回入れ、ともに脱出に2打ずつかかった。
アプローチは9Iを多用。大オーバーが1回あったが、30y程度からうまくグリーンに乗ったのもあった。それよりグリーンサイドでのちゃっくりが多かった。
10番は第2打をわざと池に入れたが、プレ4をちゃっくりして無意味になった。
パターはピンを使った。短いところがまずまず入ったが、最後の18番の5歩を外した。
第1打は今後も4Uで行くべきだろう。確実性を上げていくことが課題。

2011/07/31

110730 北広島東


OUT □□□△−○□□× 49(18)
IN ×−△△−×□△△ 48(19)=97(37)

今季4回目のラウンドにしてようやく100を切ることができた。1Wは相変わらず右にプッシュしたり引っ掛けたりだったが、8I、9Iがわりと良かった。パー3をボギー、バーディ、パー、パーで乗り切れたことが大きかった。
SWはあまり使わなかったがざっくりもオーバーもやった。9Iの転がしはまずまずだった。20~30yでも9Iで転がせたら、もう少しスコアが良くなるのではないかと思う。
ミスが多かったのは4Uで、トップするのが多かった。それでもダフるよりはましだが。
パターはレッドウッドに戻し、距離感はメタメタだったが、50cm~1mが何とか入ってくれた。パット数は37だったのだから御の字だろう。
やはり第1打をしっかりまっすぐ打つことが自分レベルには本当に重要だ。そしてハザードに入れないことだろう。毎度のことだけど。

2011/07/20

110718 北広島南


南IN △□+5△+6△×△+6 62(22)
南OUT □□△△-+4△□- 49(21)=111(41)

前日に続いてのラウンドで少しは良くなるかと思ったが、全く反対だった。OB1回で、池やバンカーはなかったにもかかわらず、1Wでミスして斜面や林に行き、脱出に2~3打かかることが多かった。
パターも2ボールを使ったがむしろ悪くなった。距離感がさっぱりだった。
最後の8Iのパンチ気味ショットが光明か。やはり方向がすべてだ。

110717 北広島東


東OUT △×+5□-△△×× 55(20)
東IN □-□□△△□△△ 48(18)=103(38)

久しぶりのゴルフ。OUTではバンカーで随分叩いた。チーピンで斜面や林に行くのも多かった。SWのアプローチも何度かミスした。
やっぱりティーショットは2Uか4Uでフェアウェーを外さず、7Iで130yくらいしっかり打ち、寄せは9Iで転がす。パターは確実に2パットで入れる。毎度のことだが、これができなかったのに尽きる。
ゴルフもクルマの運転も人間性が出てしまうものであることを久しぶりに、そしてあらためて感じた。

2011/06/29

不信


試験まであと5日。先日の2回目の模試でも答練でも半分程度しかできない。正解率だけでなく35問でどんなに急いでも2時間かかってしまう。これでは午前はよいとしても午後は全くだめだ。過去問レベルの基本ができていない上に本番想定の練習もできていない。1回で合格しようというのが無理な話なのだろうが。
もう完全に無理なせいか、全く焦っていない。心の底では早く終わらないかなと思っているのだろう。挑戦は今後もできる限り続けていくつもりだが、こんな調子ではいつまでたってもだめだろう。といってがむしゃらにやってもだめだろう。学費を少しでも無駄にしないためにも、無理と分かっていても続けるしかない。
民主党原理主義の自分もさすがに最近は恥ずかしいと思うようになった。菅という人は自分以外の人間をきっと誰も信じていないのだろう。友人も少なく、一匹狼といえば聞こえはいいが、結局誰にも信頼されなかったという事実を、今になって痛感しているのではないか。誰も信じず、誰にも信頼されていないと分かっているから、今のような行動がとれるのではないだろうか。他人を信じない人間は、他人に信頼されないには当たり前だ。自分も似ているからなんとなく分かる。
歴史に名を残そうとして何になるのだろう。この世界どころか、宇宙でさえも、いつか確実に消えてなくなるというのに。

2011/05/29

険しい道


前回書いてからだいぶ時間があいてしまった。アンロックしたiPhoneは現在も順調だがGPSの信号受信がかなり弱まっているようだ。NIKE+GPSではGPSが信号微弱で作動しないことが分かった。ウェザーニュースでもよく手稲区や北区と出る。マップは動いており精度も屋外ではそれほど悪くはないので支障はないけれどBB06.15.00に書き換えるのはやはりGPSに相当ダメージがあるようだ。
22日の模試は悲惨だった。初めて見る設問も結構あった。答練でも半分くらいしかできていなかったので期待はしてなかったが予想以上に悪かった。とても合格どころではない。過去問題集は各科目4回以上、民法は7回やったがあまり成果は出ていない。択一式は計70問だが350の選択肢すべてに答えられるようにしないといけない。模試ではペース配分に留意し特に午後は書式に90分は時間が取れるようにと思ったが75分程度しか取れなかった。しかも民訴法や供託法は、時間をかけても間違っていただろうけれど、かなりいい加減だった。合格レベルにほど遠い自分はまず択一を一つずつしっかり解いていくべきで、受験できるか分からないが来年、再来年を見据えて基本からやり直していくしかないのだろう。勉強を初めて1年半あまり。これまでやってきたのは何なのかと思ってしまう。でもここで諦めるわけにもいかない。
最近はMNPや買い物ですいぶん無駄なお金を使ってしまった。いま一度あらゆる面で自分を見つめ直さねばならない。

2011/05/21

SBsettingsで苦労


talking SIM U300は順調。最初は下り298k出ていたけれど、最近は200kくらいの日が多い。どこかのブログにあったが、本当に1週間たつと遅くなるのだろうか。普段使いに支障は全くないけれど。これまでSB黒SIMでは圏外だった会社の会議室やトイレでばっちりつながるのは本当にいい。バッテリーの減りも変わらない。
ところでb-mobileにしたのを機にmobile terminalを入れてパスワードを変えたのだが、そのころからcydiaのデータベース更新で「no package:header」「apt-get update」とエラーが時々出るようになった。検索してみるとデータベースの更新がうまく行っていないようなので、mobile terminalからapt-get updateをしてみたが、しばらくするとまた出た。それと同時にBig Bossのレポジトリで不具合が起こり、ついにはBig Bossのレポジトリの中が空になった。再度登録しようとしてもサーチでBig Bossが出てこない。これも検索してみたら簡単な解決策がないようだった。
Big BossといえばSBsettingsだろう。そこでSBsettingsを再インストールしてみたら直るかも、と思ってremoveしたら、レポ自体が検索できないので当然再インストールもできない。こりゃ困った。SBsettingsはiPhoneで一番使っているアプリ。なくてもいいが、ないと不便で仕方ない。一般的なBig Bossのレポアドレスhttp://apt.thebigboss.org/repofiles/cydia/dists/stableではだめなので、betarepoを入力したらレポの登録はできた。しかし、SBsettingsのインストール画面までは行くけれど、そこからいつもエラーだった。
再JBも考えたが、BB6.15にしているので再JBでunlockを失ったら元も子もない。半ばあきらめていたら、ifunboxでcydiaのデータベース関連のファイルを削除する方法を見つけ、試してcydiaを起動させると最初に出るユーザの種別を聞く画面が登場。ソースにはデフォルトのBig Bossのレポがちゃんと入っており、SBsettingsも無事インストールできた。/var/lib/cydia/ と開いて「metadata.plist」ファイルを削除し、/etc/apt/ と開いて「sources.list.d/cydia.list」を削除したら成功した。
SBsettingsがないとlockするときやクルマでのBluetooth使用時に不便だった。本当によかった。ultrasn0wのアップデートもやめ、cydiaにはもう触らないようにしよう。

2011/05/16

talking SIM U300


14日にtalking SIM U300が届いた。4月27日に申し込んだので連休を挟んで18日間かかった。紙のパッケージ内の名刺大のカードから切り離し、黒SIMを外して入れると当然だがすぐにNTT DOCOMOの表示に。通話、ネット接続ともに何の手間もなく開通できた。黒SIMの時、自宅ではほぼ5本立っていたような気がするが、ドコモだと3本の時が多い。ただ、黒SIMで頻繁にあった「突然圏外」は今のところない。
テザリングは入力してもなかなかオン表示にならず、何かJBソフトを入れないとだめかと思っていたが、5分くらい経ったら突然オンになった。以後はUSB、Bluetoothとも簡単に接続可能。ダイヤルアップのような手間がなく、iPhone側のスイッチを入れるだけですぐに接続する。
U300は名前の通り上限300Kだが、今までのところ十分に使える感じだ。ニュース系のサイトもそんなに待たなくてもよい。メールもTwitterもGoogle Docもストレスない。自分は外でYouTubeを見ることはないので、本当にこれで十分だ。プラチナにしなくて良かった。
あす会社に行って会議室などで検証してみないと分からないが、圏外にはならず、自分のようなライトユーザにはぴったり。バッテリーは少し消費が早い気がするが、SIMが来たばかりなので触る回数が多いためかもしれない。これで3GSが壊れるまで使えそうだ。
試験まであと50日を切った。きょうは答練を半分やったが、35問で20問だった。民法でもだいぶ間違えた。無理だと思うが全力を尽くすしかない。

2011/05/05

いつか見た光景


福島第一原発事故の収束見通しが立たない中、世間では東京電力の賠償案(救済案?)なるものが取りざされている。原発を保有する東電以外の電力会社も分担し、結局は電気料金に跳ね返るようだ。
かつての(もう20年も前になるのか)バブル崩壊後、銀行の不良債権問題が処理された光景と似てきた。それなりに責任を取らされる人たちはいるのだろうが、税金がつぎ込まれ、組織はほぼ現状のまま存続し、結局は何も変わらない。
暑い夏を冷房なしで一度越したら、おそらく原発再開の声がどこからか高まってくるだろう。世間の我慢はそう長くは続かないものだ。電気代が2割近く値上げされるのなら『誰かが払っている』税金でどうにかしろ、ということになるかもしれない。消費税が20%くらいになれば別かもしれないが。
また国の借金がどんと増え、負担は先送りされ、いつかくる破局の規模がさらに大きくなるのだろう。ここまできたらどうなってももう同じ、ということか。
大津波で砕かれた土地の鏡の上にも新しい景色は映されるだろう。
原発事故で放置された土地の鏡の上には、いつか何かが映されるのだろうか。

2011/04/23

110416 桂GC


IN △△△□△+4△×× 53(21)
OUT ×+4□□+5-△×△ 57(18)=110(39)

計量杯の初戦。10度を切る寒さ、強い雨、苦手な桂と悪条件が重なったこともあるが、練習も1回しかしておらず順当な結果だった。1Wはわりと良かった。バンカーや池に入れたり、アプローチで何度かざっくりやった。悪条件では転がしが生きる。今季は何度できるか分からないが、チッパも使って転がしに取り込んでいきたい。

2011/04/13

unlock


iPhone3GS(old)を先日アンロックした。昨年秋にultrasn0w1.2が出た時は、GPSの喪失例報告などで踏ん切りがつかなかったけれど、8月にはソフトバンクを解約するので、アンロックに失敗しても電話機能とiPod機能さえあればそれほど影響ないのと、成功しても不具合はないかしばらく様子を見る必要があるかな、と考えたからだ。
アンロックにはredsn0w0.9.6rc10を使用。iOS4.2.1で復元にするにはiTunesを10.1.2に下げないとだめだということを「鉄男のiPhone日記」さんで知り、iTunesの入れ直しから行った。4.2.1のipswダウンロードはリンク先があちこちのサイトで紹介されているが、IE8だとzipがうまく解凍されず何度やってもだめだった。ところがfirefoxではあっさりとできた。
redsn0wの作業は分かりやすく、DFUモード入りするのに何度か失敗したが、5回目くらいで成功した。DFUモードに入れたのかどうか、iPhoneの画面上は変化しないので分かりにくいが、DFUに入るとredsn0wが進んでくれる。解錠の時間は10分程度だったか。進行バーが真ん中付近でしばらく止まったままだったので少し不安だったが、最後はだだっと進んでDoneが出た。
ultrasn0wをインストールした直後は圏外表示になったので一瞬どきっとしたが、リブートしたらSoftBankの黒SIMを認識。妻のdocomo携帯のSIMカードを入れてみたら、再起動の必要もなくすぐにNTT DOCOMOの表示になって通話もできた。ベースバンドは6.15.00にアップ。いまのところGPSもWiFiもBluetoothも正常に動いている。dev team blogにあるSAMの処置はしていないが、バッテリーの減りも黒SIMと変わらないようだ。
dev teamは本当にすばらしい。世界にはつくづく頭のいい人たちがいるものだと感服する。こんなにうまくいくのなら昨秋にやってすぐにMNPすればよかった。でもその時は失敗していたかもしれない。
ultrasn0wはiOS4.3.1での不具合に対応するため1.2.1にアップされたが、自分はまだ上げていない。iOSもiTunesも今後は上げないつもり。MuscleNerd氏がつぶやいていた6.15から5.13へのダウングレードができれば、本当にすばらしいのだが。

2011/03/30

変わらない


この2週間で国内は大変な状況になった。
復興もエネルギー問題も国家財政も、解決にはこれまでには見られなかったありとあらゆる力が必要となるだろう。
それは特に政治で求められることだろう。
ただ、復興はそれなりに粛々と進められると思うが、政治はたぶん何も変わらないような気がする。
それは我々の意思だから。
縮んでいく世の中で誰しもいま持っているものを失いたくない。
会社もそうだ。
足元は半分沈みかかっているけれど、まだ図体はでっぷりしているから、少しダイエットすれば当面はしのげる。
しかし図体は日々確実に沈んでいる。
誰しも分かっているけれど失いたくない。
自分もそうだ。
あらゆるものの信頼が失われていく中で、これからの世の中には、どんなカオナシが登場するのだろう。

2011/03/10

取らんと欲する者はまず与えよ


老子の一節。
プリウスの燃費について大阪の人のブログを見ていたら、書いてあった。
好きな人がいて「笑顔を見せてほしい」「話しかけてほしい」「アプローチしてほしい」と思ったら
こちらから笑顔を見せよう、話しかけよう、アプローチしよう、という。
当たり前だけど、なかなかできないこと。
無為ではないが、簡単にみえることほど難しい。

2011/03/09

将来の日本


原油・食料の価格が高騰
アメリカ発の大不況
日本で大バブル発生
日本でハイパーインフレ発生、世界に波及
金融引き締めで国債暴落、金融機関破綻
国債デフォルト、年金破綻、銀行預金消失
公的債務は解消、高金利社会の到来
農業中心の戦前日本に回帰、最大の敗者は大手企業ホワイトカラー
金融は国有化、自動車・電器などの製造業就労者が大幅減、肉体労働者が大幅増

<その対策>
①いまある借金はすぐ返す
②テレビとゲーム機を捨てる
③2012年末まで銀行預金を増やす
④2016年頭までに株を買う(大バブル到来)
⑤株を売って金を買う(大バブル崩壊に備えて)
⑥2016年の参院選(金融引き締めに転換)前に金を売ってタンス預金
⑦大バブル前に長期固定金利で都心部に家を買う(燃料高で車に乗れなくなる)

なのだそうだ…

2011/02/01

10,000日


エジプトも政権が倒れそうだ。独裁政権を倒したのは銃でも核兵器でもなく、「つぶやき」や「お友だちネットワーク」だった。こんなことをこれまで誰が予想できただろうか。
以前からカイロに勤務してみたかったが、もう40を過ぎたし、無理だろう。
試験まであと150日あまり。問題を毎日40問やっても、6,000回しかできない。
あと30年生きられるとすると、残りはほぼ10,000日。
長くはないのだと、あらためて思う。

2011/01/27

幸福の国デンマーク


幸福度世界一とされるデンマーク。南アW杯でも対戦した。
自分はスウェーデンとフィンランドには行ったことがあるが、デンマークはない。デンマークの面積や人口は北海道とほぼ同じ。農業主体であることも似ている。

国民負担率70.9%
消費税率25% 軽減品目なし
所得税率最低40% 最高60%
自動車関税180%
貿易黒字=健全財政を堅持
総発電量における風力の割合20%
コペンハーゲン市内の自転車通勤率30%
医療費原則無料
負担分を上回る薬代には補助
介護費用原則無料
年金の25%を超す介護付住居の入居費用には全額補助
年金だけで暮らせない人は皆無
小学校から大学まで原則無料
自宅通学の大学生には月8万円補助
社会人の再学習費用に補助
失業保険2年分(2010年まで4年分)
輸出品は豚肉や乳製品
国を挙げて農業の大規模化・効率化推進
全就労者の30%が公的部門
ビジネスは米国流合理主義、分配は社会主義
首都に住み、郊外のオフィスに通勤
石油自給率100%超、一部は輸出
天然ガス資源も豊富
コペンハーゲンの繁華街にはブランド店がない
(小宮一慶氏『幸福大国・デンマークの実像』より抜粋)

農業も強いけれど、北海油田があるのが強みかもしれない。
ブッダにあるように「幸せになる方法は欲を捨てること」であるのなら、デンマークは「欲を捨てられる国」なのだろうか。